サイコミステリ
堕天使の翼
       By九宝七音

プロローグ
第一章・帰郷
第二章・隣人
第三章・堕天使
第四章・天使の骸
第五章・歪んだ真相
エピローグ
 『プロローグ』                                                                       

 すでに深夜の二時を廻っている。一体いつの間に眠ってしまったのだろうか。
 シングルベッドから降りると、青木はテラス側の窓ガラスのカーテンを開け、外の様子を伺った。今日の昼過ぎから降り始めた雨は、どうやらまだ衰えることを知らずに降り続けている様である。ときおり暗黒に染まった空が青白く光り、しばらくの間をおいてゴロゴロと、鈍い空鳴りを響かせていた。
 青木は部屋の電気を点け、ステレオのスイッチを切ると、テーブルに置いてあった煙草を口に咥え、火を点けた。ゆっくりと、部屋の中に紫煙が広がる。

…あの電話…。

 青木の住むマンションに、奇妙な電話が入ったのは、ちょうど昼食を食べ終わった頃だっただろうか。おもむろに取った受話器から、変声機かなにかで声色を変えた甲高い声が聞こえてきたのである。
『翼を…僕の翼を返しておくれ』
 受話器から聞こえた声は、確かにそう言っていた。声色が変わっているために、その声の主が男か女なのか判断するのは難しい。
『翼を…僕の翼を返しておくれ』
 受話器の声は、執拗なまでにその言葉を繰り返す。
『翼を…僕の翼を返しておくれ』

…馬鹿な!

 その言葉を聞いた刹那、青木の顔面からは一気に血の気が失せ、脂汗が額に滲んできた。
「だ、誰だよ、お前、誰なんだよ!?」
 受話器に向かって青木は叫びかけるが、返ってくる言葉は動じることなく同じ台詞を繰り返すのみであった。
『翼を…僕の翼を返しておくれ…』
 青木の記憶が、一気に十五年前に遡る。


 血に染まったダイニングルーム。
 そこにナイフを持ってたたずむ一人の『天使』。その天使も返り血を浴びてか、手のひらがどす黒く染まっている。
 そして、その『天使』の足元に横たわる二つの死体。

…違う、天使なんかじゃない!あれは…。

(お前が殺したのか?)
 当時、八歳だった青木が尋ねた。
(違う、僕じゃないよ)
 『天使』が震えながら答える。
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
 青木の後ろにいた同級生、染谷が叫ぶ。
(違う、違うよ。僕じゃないよ!)
(お前が殺したんだ!皆、あいつを捕まえろ!)
 もう一人の同級生、穴井が泣き叫ぶ『天使』の方を指差して合図する。
(いやだ!!)
 『天使』は手に握ったナイフを青木たちのほうに投げつけて、裏口のほうへ逃げていった。
(追いかけろ。あいつはノロマだからすぐに追いつけるぞ!)
 穴井の声に合わせて、三人は『天使』の後を追いかけた。
 そして…。

『翼を…僕の翼を返しておくれ』
 再び受話器から聞こえてくる声に、青木の思考は十五年前から現実へと引き戻された。

…馬鹿な。あいつは死んだんだ!

 青木は、泣き出しそうになる自分を必死で抑えながら、受話器を電話にたたき戻した。

…悪戯だ。たちの悪い悪戯だ!

 そうして青木はベッドに潜り込み、ステレオを掛けてそのまま眠り込んでしまったのである。

…だから変な夢を見たんだ。

 青木はそう思った。自分は考えすぎなのだ。あの事件はあの場に居合わせた三人以外に知っているはずがない。そうなのだ、あの電話は単なる偶然の悪戯なのだ…青木は無理にそう思い込もうとした。
 真っ暗な空に激しい紫電が走り、一瞬青白く光る。そして、そのあとすぐに、耳を劈かんばかりの雷鳴が響く。雷が近づいてきているようだ。雨のほうも、その激しさを増している。アスファルトに叩きつけられる雨音が、しんとした青木の部屋まで聞こえてくる。
 青木は煙草を灰皿でもみ消し、少しでも気分を変えようと、そばにあった新聞を手にした。今日の新聞(正確には昨日になるのだが)には、まだ目を通していない。まず、テレビ欄にざっと目を通してみるが、今の時間帯に青木が興味を持つような番組はやっていないようだ。次のページを開いてみる。

…あ、ああ、これは!?

青木の目は、あるひとつの記事に釘付けになった。それほど大きな記事ではなかったが、付近で起きた事件記事である。

…染谷俊彦(そめやとしひこ)って、あの染谷か!?

 その記事には、かつて青木の同級生であった一人の名前が記されていた。

…D公園で、何者かに襲われ死亡。

 記事にはそう書かれていた。被害者の名前が染谷俊彦…。
 染谷とは故郷の小学校、中学校とで仲の良かった友人の一人であったのだが、高校へ入ってからは、何の連絡も取っていなかった。ずいぶんと懐かしい名前を目にしたわけだが、まさかこんな形で目にするとは青き自身思っても見ないことであった。

『翼を…僕の翼を返しておくれ』

 怪電話の声が、青木の頭に甦る。

…違う!これは偶然だ。

 激しく頭を振り、新聞を放り投げる。
 その時である…。

         ピンポーン

 青木の部屋にインターホンの音が響いた。
 再び汗が体中から噴出す。一体こんな時間にどんな来訪者があると言うのか。

         ピンポーン

 虚しく響き渡るインターホンの音。
 青木はおもむろに立ち上がると右腕で汗をぬぐい、恐る恐る玄関の覗き穴に目をあててみた。
 玄関の外に立っているのは、帽子を目深にかぶった人物。帽子の鍔のせいで顔がうかがえず、男か女かさえも解らない。
 空が青白く光る。そして爆発音にも似た激しい雷鳴。どこか近くに雷が落ちたようだ。
「ど、どなたですか?」
 青木は、震える声で玄関越しに尋ねた。すると相手は帽子を脱ぎ、覗き穴に向かって一礼する。
「あ、あんたは!」
 青木はその人物の顔を見て驚いた。知らない顔ではない。しかし、ずいぶんと久しぶりに見る顔である。思わず玄関の鍵を開け、相手を部屋の中に招き入れた。
 相手はどうやらレインコートを着ているらしく、玄関前でコートについた雨粒をはたいて中に入ってきた。
「一体、こんな時間にどうし…」
 驚く青木の言葉を無視して、相手はずかずかと部屋の中に入り込む。
「ち、ちょっと」
 慌てて青木も後を追いかける。
「どうしたんですか、こんな時間に?」
 突然、部屋の中央で立ち止まった相手に、青木は再び尋ねた。
「ええ、あなたに聞きたい事がありまして…」
 ゆっくりと青木の方を振り返り、その人物はそう声を発した。
 刹那、青木の表情は凍りついた。その声は、電話で聞いたあの声であったからだ。恐らく、ヘリュウムガスか何かを飲み込んでいるのだろう。甲高い、不明瞭な声である。
「翼を…僕の翼を返しておくれ」
 その人物は、電話と同じイントネーションで同じ言葉を呟いた。
「ああ、お前は!?」
 青木は驚愕し、その場から逃げ出そうとした。しかし、それよりも早く、相手はポケットからナイフを取り出すと、青木に向かってそれをふりおろした。
「ひっい!」
 青木は悲鳴を上げ、両腕で自分の体をかばう。

           グサッ

 鈍い衝撃が、青木の右手のひらに広がる。相手のナイフが、手のひらを貫通したのである。
「ぐゎぁぁ!」
 どす黒い血液が、手のひらからしたたり落ちる。
「翼を…僕の翼を返しておくれ」
 相手は、冷酷なまでにその言葉を繰り返しながら、再びナイフを振り上げる。
「や、やめてくれ、助けてくれ!」
 青木は尻餅をついたままあとずさろうとするが、恐怖のため体が言うことを聞かない。
「なんでだよ、なんであんたがこんなことすんだよ。まさか、染谷を殺したのも、あんたなのか!?」
 青木の質問には答えず、相手はじりじりと青木を追い詰める。
「翼を…僕の翼を返しておくれ」
 相手はそれだけ言うと、冷徹な眼差しのまま青木に向かってナイフを振りおろした。
「ぎゃややゃあ!」
 青木の首筋にナイフは突き刺さり、鮮血が噴水のごとく辺りに飛び散った。
 意識が遠退く。その間にも、相手は何度も何度も青木の体にナイフを突き立てる。
 再び空が青白く光り、激しい雷鳴が響いた。



  
<2>

 八月十三日 月曜日…。

 薄く紫色に染めた、肩まである髪。紺色のスーツのスカートの丈は、少し短めである。藍色のアイシャドウが目立つ化粧は、切れ長の細い目を強調しているようで、新藤冴子(しんどうさえこ)は一度髪を後ろに振り払い、事件現場である部屋の中に入ってきた。
 一見すると冴子の格好は、水商売人のそれであるが、実はれっきとしたO県警の第一課の刑事なのである。まだ二十八歳と言う若さであるが、なかなかの捜査成績を収めており、県警の中でも注目を集めている人物であった。
「あっ、おはようございまーす。冴子さん」
 両手に手袋をはめようとしていた冴子に声を掛けてきたのは、糸永慎二(いとながしんじ)という、今回冴子と初めてパートナーを組むことになった、二十六歳の新人刑事である。男にしては妙に甲高い声で、態度のほうも実に飄々としている。太い眉毛に、スポーツ刈りの髪型。大きな二重まぶたは今にも眠りそうなほどに垂れているのだが、それが糸永の生まれつきの容貌なので仕方がない。
「まったく、こんな朝早くから叩き起こされて、冗談じゃないわ」
 冴子は大声で愚痴をこぼしながら、あたりの様子を伺う。 
 1LDKのその部屋は、最低限の家具しかないらしく、実に質素である。ただっ広いリビングには、何人かの鑑識員が写真を撮ったり 指紋を検出するためのパウダーを振りまいたりしていた。そのリビングの中央には、どうやらシーツを掛けられた被害者が横たわっているらしく、その周りはおびただしい血液が飛び散っていた。
「朝早い、って言うわりには、きちんとメークきめてますね」
 冴子のあとを、金魚の糞のごとくちょこまかとついて来る糸永が余計なことを言う。勿論、冴子はそんな糸永を睨み付け、スポーツ刈りの頭をぴしゃりと叩いた。
「痛いっスヨ、冴子さん」
 甲高い声で、叩かれた頭を撫ぜる糸永を尻目に、冴子は被害者の元まで歩み寄り、シーツをめくった。
「ああ、酷いわね、これは。…それで、被害者の身元は?」
 冴子は死体の状態をよく観察しながら、糸永に尋ねた。すると糸永は、ええっと、と呟きながら手帳をめくる。
「今わかっているとこまで言うと…、被害者の名前は青木祐介、二十五歳。このマンションで一人暮らしをしていたようですね。勿論独身ですよ。詳しい死亡推定時刻は検死のほうに回さないと解りませんが、死体の状況から見て、恐らく午前二時から四時の間ですね。体中を鋭利な刃物で数十箇所刺されています。…現場は荒らされた形跡がありませんから、多分、物取りによる犯行ではないでしょうね。…それよりも、被害者の右手に握られているもの、見てください」
 糸永に言われて、冴子は死体の右手に注目した。その右手は、どうやら刃物の一撃を受けているらしく、どす黒い血がこびりついていたが、握られているものが何なのかはすぐに確認できた。
「白い羽根…。この前と一緒ね」

 三日前、D公園で男の刺殺死体が発見された。男の名前は染谷俊彦。今回と同じ、二十五歳の独身男であった。彼も体中を鋭利な刃物で滅多刺しにされていて、右手には白い羽根が握られていたのである。
「どうやら、三日前の事件と同一犯らしいっすね。どうして犯人は被害者に、白い鳥の羽根なんか握らせるんでしょう?我々に対する何かのメッセージすかね。ほら、アルセーヌ・ルパンみたいな、警察に対する挑戦状とか。それとも、犯人は愛鳥家だとか…」
 糸永は、冴子の横でぺらぺらと訳の解らぬ事をぶつぶつ言っているが、冴子はそれを無視する。
「マンションの住人で、怪しい人物を目撃した人はいないの?」
「へ?ああ、それは今のところないみたいっすね。…それよりも冴子さん、僕の鋭い推理聞いてます?」
「争うような物音とかは?隣の住人に聞いてみたの?」
「それは勿論ですよ。だけど、なかなかここのマンションの壁は分厚いらしくて、そういう証言は取れてませんね。第一、昨日は雷がうるさくって、ろくに眠れませんでしたよ。僕、雷苦手なもんでして」
 冴子はうんざりして、糸永を一瞥した。
「誰もあなたのことなんか聞いてないわよ」
 冴子に言われて、糸永は苦笑いを浮かべる。
「またまたぁ、そんなに冷たくしなくてもいいじゃないっすか」
 そういう糸永に対して、冴子は大きく溜め息をついた。どうしてこんなわけの解らぬ男と、パートナーを組まされたのだろうか。いつもパートナーを組んでいる双葉と言う男も、糸永とさほど変わらぬ年齢なのだが、真面目一直線の彼は、冴子に対していろいろと説教を垂れる癖があるので、冴子はその男もあまり好きではないのだが、少なくとも、この糸永と言う刑事よりかは幾分かましなように感じる。ちなみに、双葉は急性盲腸炎にかかって、現在入院中である。
 冴子は、被害者にシーツを掛けなおすと、おもむろに立ち上がり、再び部屋の中を見渡した。確かに荒らされた形跡は無いようだ。となると、物取りの線は薄い。

…怨恨の類かしら…。

 髪をかき上げながら考える。
「ねえ、糸永君。確かD公園の事件の被害者の名前は、染谷俊彦だったわよね」
「はい、そんな名前だったように思いますけど」
 糸永は自信無げにうなずく。
「いいわ。あなたは今から、被害者二人に何か共通点は無いか調べて。私はしばらく、近くで聞き込みをしてみるわ」
「もしかして、連続殺人事件になるんですかね?」
「被害者の状況から見て、その線が濃厚ね」
「うわっ、なにか大変なことになりそうっすね」
 糸永は、甲高い声で大袈裟にそう言うと、にやりと笑った。
「な、なによ、その笑みは?」
 不審に思いながら、冴子は糸永に尋ねる。
「へへっ、冴子さん、僕に任せといてください。こう見えても、学生時代は推理小説の愛読家だったんですから。連続殺人事件だろうが、密室殺人事件だろうが、僕の頭脳に掛かれば、ものの見事に解決ですよ!」
 糸永は、自信に満ちた表情で、喜々と宣言する。
 冴子は、再び大きな溜め息をついた。一体どこから、そんな根拠の無い自信がわいてくるのであろう。

…あなたが、ただの馬鹿でないことを祈るわ。

 呆れた視線を糸永に投げつけ、冴子は心の中でそう呟いた。

               ※※※

 遠くで、陽気な笛の音や太鼓の音が聞こえる。今日は夏祭りの日だ。
 天空を真っ赤に染める夕日は、まるでそれが何か不吉な予兆であるかのように、無言で町を覆っていた。
 三人は、彼の家へ向かっていた。彼は面白い。なぜなら彼は、三人にとっては奴隷のようなものだったから…。だから、三人は彼を夏祭りに誘うことにした。彼を連れて行けば、いろいろと都合が良い。 
 三人は彼の家の前まで来ると、インターホンを押した。しかし、返事が無い。代わりに、家の中から悲鳴が聞こえてきた。
 三人は驚き、彼の家へ急いで駆け上がる。

 鮮血に染まったダイニングルーム。

 そこにたたずむ、一人の『天使』…。彼だ。

 そして、『天使』の足元に横たわる二つの死体。

(お前が殺したのか?)
(違う、僕じゃないよ)
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
(違う、違うよ。僕じゃないよ!)
(お前が殺したんだ!みんな、あいつを捕まえろ!)
(いやだ!!)
(追いかけろ。あいつはノロマだからすぐに追いつけるぞ)
 『天使』は跳ぶように、裏口の方へ逃げていく。
 三人も慌てて、天使のあとを追う。
 
 今日は、夏祭りだ…。