第一章


帰郷


<1>

 北野純香(きたのじゅんか)はかすかに振動の伝わるバスの、一番後ろの席に座っていた。憂鬱そうに今まで読んでいた新聞を閉じると、大きく溜め息をつく。そして、流れる景色を窓越しに見つめ、死んだ二人のことについて思いを馳せた。
 染谷俊彦と青木祐介が何者かによって殺害された。そんなニュースが今、週刊誌やワイドショーを賑わせている。二人とも純香の知っている人間だ。二人の実家が、純香の帰ろうといる実家とそれほど離れていないところにあるのである。特別に親しい仲ではなかったが、彼らは純香よりも三つ上の先輩になる。そんな二人が、何者かによって殺害されたのだ。あまり人事として捉えるのは難しかった。

…二人の被害者の手の中には、一枚の白い鳥の羽根が握らされていた…

 そんな記事が、純香の脳裏に染み付いていて離れない。なんとも猟奇的で、暗示的な犯人の行動である。一体、何の意味合いを含めて、犯人はそのようなことを二人の死体に施したのであろうか。しかし、そんなことを、今の純香が知る由は無かった。
 バスはやがて、ずいぶんと田舎道にさしかかる。
 純香が実家を出て、都会で暮らし始めてもう二年にもなる。初めのうちはずいぶんと魅力的に思えた都会暮らしも、慣れるにしたがってすさんだものに感じてきていた。一年間付き合っていたボーイフレンドと最近別れたこともあって、純香は二年ぶりに盆休みを利用して、帰郷することにしたのである。
 久しぶりに見る、それでも見慣れた風景がバスの窓を通り過ぎる頃、バスはひとつの寂れたバス停で止まった。本当ならば、もうひとつ先のバス停で降りたほうが実家には近いのだが、純香は少しばかり歩こうと思って、そのバス停で降りることにした。
 バスを降り、暫くその場で立ち尽くしてみる。四方を囲む田んぼや畑。遠くに見える雄大な山々…。何も変わっている様子は無い。蝉の声が聞こえ、鳥囀りが聞こえる。都会では厳しい猛暑が続いていたが、この田舎は都会に比べて、幾分か涼しいように感じる。
 北野純香は、一度大きく息を吸ってから歩き出した。

 実家へは、三十分ほどでたどり着いた。他の家に比べて、北野家は少し大きい。だからと言って、別段裕福なわけではないのだが…。
 錆びれた鉄門を開けると、突然犬の鳴き声が純香を襲う。『五郎』と名づけられたその柴犬は、純香が都会へ出る前に、純香の兄がどこからとも無く連れ帰った犬であった。どういうわけか、兄以外の人にはなつかず、兄以外であれば、深夜日中構わずに誰でもかれでも五郎は吠えかけてくるのである。純香が家を出るときは、まだほんの小さな子犬であった五郎であるが、もうずいぶんと逞しくなった感がある。
「ただいま、五郎ちゃん」
 犬にウインクして見せて、純香は玄関の扉を開けた。
 玄関を開けると、実家特有の匂いが純香の鼻に漂う。なんとも懐かしい気分で、
「北野純香、ただいま帰りました!」
 と声を張り上げて叫んだ。
 しばらくすると、部屋の奥からゆっくりと人影が現れる。長身で色白の好男子…北野純香の兄、春人(はるひと)であった。
「やあ、お帰り、御転婆お嬢ちゃん。都会暮らしはどうだったかな?」
 ゆったりとした口調で、それでも茶化すように春人が笑顔で妹を迎える。眼鏡をかけた、少しインテリ風の兄の表情には、別段変わった様子は無い。確か今年で三十路を迎える歳になるはずだが、どうやら結婚相手は、まだ見つかってないらしい。
「はぁ〜、疲れたよ。結構実家まで遠いもんだね」
 靴を脱ぎながら、純香は手に持った荷物を兄に預ける。
「ははっ、そりゃそうだろう。…それより、仕事のほうはうまくいってるのか?」
「うん、まぁそれなりにね」
 純香は言いながら玄関を上がり、まずダイニングルームへ向かう。少し喉が渇いたので、何か飲み物がほしい。
 広いキッチンに入ると、純香は冷蔵庫を開け、麦茶を見つける。

…えっと、コップはっと。

(いい加減にしないか!)

…えっ!?

(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)

…な、なんなの!?

(やめろよ)

 ガラスコップの割れる音。
 そして…、血が、血がいっぱい床に拡がって…。

…血の臭いが、血の臭いが!
 ゆっくりと倒れる、二人の体。
 ナイフを振りかざす人物。

…あの人は、あの人は…。

「…おい、純香。純香、どうしたんだ?」
 声に気づき後ろを振り向くと、心配げな表情で純香を見つめる兄がいた。
「えっ、いや…」
 冷蔵庫を開けっ放して、純香は麦茶の容器を持ったままだ。

…今のは何だったの?

 突然、純香の頭の中に浮かんできた映像。それはまるで、幼い頃に見た映画を突然思い出したような、そんな感覚であった。
「お前、顔色が悪いぞ。長旅で疲れてるんじゃないのか?」
 春人は、純香の顔を覗き込む。
「う、ううん、大丈夫よ。少し立ち眩みがしただけだから」
 無理に笑顔を作り、微笑む。
 純香がそういうと春人はそうか、それならいいんだけど、と言って、自分の部屋へ引き返していった。
 純香は気をとり直し、コップに麦茶を汲むとそれを一気に飲み干した。



直線上に配置

<2>

 糸永慎二は、椅子に座ったまま真剣な顔で新藤冴子の顔を見つめている。
「な、なによ、急に」
 冴子は食べかけていたラーメンのお椀の上に箸を置く。
「いゃね、冴子さん。僕はふと思ったんすよ」
 糸永は、相変わらずの真摯な眼差しで冴子を見つめ続けている。
「なにを?」
 冴子が訝しげに尋ねると、糸永は残念そうに目をそらした。
「冴子さんが、ラーメン食ってる姿って…、あまり似合わないっすね」
「はあ?」
 糸永の訳の解らぬ返答に、思わずそんな声が冴子の口から漏れた。

 八月十四日、午後八時…。冴子と糸永は、とあるラーメン屋で夕食を食べていた。勿論、プライベートではなく、仕事の途中である。
「糸永君、あなたなにを言ってるの?」
 溜め息をつきながら、冴子は再び箸を取り、麺を口に運ぶ。
「だってですよ、O県警第一課の新藤冴子って言えば、婦警たちの憧れの的っスヨ。なんか冴子さんがそうやってずるずるやってラーメン食ってるの見たら、なんか僕、幻滅っす」
「あのねぇ、糸永君。普通、ラーメンって言うのはこうやって食べるもんでしょう?別にあなたに幻滅されるのは、一向に構わないけど、スプーンとフォークを使って食べろって言うのなら、あなたがそうすればいいわ」
「いや、別にフォークやスプーンを使えとまでは言いませんが、もっと上品に…こうやって」
 糸永は自分で実演してみせるが、どうやらそれが失敗したようで、咳き込み、右の鼻の穴から数本の麺が飛び出してきた。
「あはははっ、ほらみなさい。慣れない事するからそうなるのよ。私は別に女だからといって、上品に振舞うつもりは無いわよ。そんなことを言うやつに限って、人間ちっちゃいやつが多いんだから。うちの上司みたいにね」
 冴子は言って、お椀に残っていた麺を全部平らげると、お冷を一気に飲み干した。

 確かに、新藤冴子は男勝りの気性の荒さもあるし、乱雑なところもある。それは自分でも自覚しているつもりなのだが、別にそれを治そうと思ったことはただの一度も無い。
「冴子さんって、彼氏とかいるんですか?」
 糸永はなおも苦しそうに咳き込んでいるが、それでも何とか言葉を発している。その姿がなんとも間抜けでおかしい。
「あなたにそんなことを答える義務は無いわ」
 冴子はきっぱりそれだけ言うと、苦しそうに咳き込んでいる糸永の背中を、一応擦ってやった。
「ああ、すいません、だいぶ落ち着きました。…で、やっぱり彼氏はいないんですね」
「まあね。…って、違う、違う!」
「えっ!いるんすか!?」
 糸永は心底驚いたような顔をする。
「だぁからぁ、そんなことをあなたに答える義務は無いって言ってるでしょう」
「じゃあ、好きなタイプの男性は?」
「そうねぇ、お金持ちで、ダンディーで、ハードボイルドで、背中に哀愁を背負っている、三十代後半の人かな…って、なに言わせるのよ!」
「やっぱ、彼氏いないんだ」
 にやにやしながら、糸永が突っ込む。
「いいじゃないの。何か文句でもあるの?大体、急に私のことを詮索しだしたりして…」
「ああ、気にしないでください。ただの好奇心すっから」
 糸永は、あっけらかんと答える。
 冴子はそんな糸永の頭を、力強くはつる。その勢いで、糸永の顔面はラーメンのお椀の中に突っ込んだ。
 まわりから、客たちの笑い声が響く。これではまるで、下手なコントだ。
「今度私を馬鹿にしたら、これ程度じゃすまないわよ」
 冴子は凄んでそういってみせた。
「酷いっスヨ冴子さん。ほんの茶目っ気じゃないっすか」
 泣きそうな顔で、糸永はお椀から顔を上げた。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。…それで、被害者のほうは何か解ったの?」
 自分の顔を丹念にぬぐう糸永に、皮肉な笑みを浮かべながら冴子は尋ねる。今日、二人が合流したのは、このラーメン屋が始めてであった。冴子は、事件現場付近で聞き込みをしており、糸永は本署で冴子に言われたとおり、二人の被害者の関係を調べていたのである。
「ええ、解りましたよ。染谷俊彦と青木祐介は、小学校、中学校の同級生なんです。当時はずいぶんと仲が良かったらしいですよ」
 糸永は、手帳のページをめくりながら言う。
「同級生、か…」
 冴子は腕を組み、髪の毛をかきあげる。
「そうなんですよ。でも、高校生になってからは、何の連絡も取ってないみたいで、ここ最近二人が会ったとか言う形跡はないっす」
 冴子はふーんとうなずき、思考する。被害者の状況から見て、恐らく染谷と青木を襲った犯人は同一人物である。現場に荒らされた跡は無く、勿論紛失したものも見あたらなし、犯人とさほど争った形跡も無い。

…顔見知りの犯行か?

 被害者二人が、小、中学校の同級生であるなら、その当時の二人を知っているものが犯人である可能性が高い。
 それから…、

…あの、白い羽根には一体何の意味があるのかしら。

 冴子は、大きく溜め息をつく。
「それから冴子さん。最初に殺された染谷なんですけど、なんでも友人たちに近々、大金が入るかもしれない、なんてことを洩らしていたようですよ」
 糸永が、冴子の顔を覗き込むようにして言う。
 その情報は冴子も知っていた。染谷俊彦はギャンブルで多額の借金を抱えていたらしく、ホウホウノテイだったと言うのだが、最近では友人や会社の同僚たちに、大きな金が手に入る、と嘯いていたというのだ。しかし、誰もその訳を知るものは無く、多くのものは染谷のハッタリだと思っていたらしい。
「青木のほうは、借金とかあったの?」
 冴子が糸永に尋ねる。
「いいえ、そういうものは無かったみたいですね。青木のほうは、借金のシャの字も無いくらいに綺麗なもんでしたよ。それに、染谷のほうも、実際に大金が入った様子は無いみたいっすね」
「そうすると、金銭トラブルの可能性は少し薄くなるわね」
「まぁ、そうなりますね。…あと、これはたまたま二人のことを調べているときに出てきたんですけど…、でも、今回の事件には関係ないかな」
「なんなの?」
「ええ。被害者二人が小学生のとき、その二人が住んでいた付近で殺人事件が起きてるんですよ。今から十五年前ぐらいですかね。だけど、その事件の犯人は捕まってないんです。確か、あと一週間ほどで時効じゃなかったかなぁ」
「どんな事件なの?」
「さあ、関係ないと思ってましたから詳しく調べてません。でも確か…、誘拐殺人じゃなかったですかね。ある一家の両親が殺されて、その息子が行方不明になった…とかいうことが記述されていたように思うんですけど」

…誘拐殺人事件、ねぇ。

 冴子はなんとなく、その事件が気になった。別に何らかの根拠があってそう思うわけではなかったのだが…、本当になんとなくそう思っただけである。しかしながら、今の時点でそれらを関連付けるようなものは何も無い。しょせんは刑事の勘、というやつだ。

…あとで、個人的に調べてみようかしら。

 冴子は、一応その事件を心に留めておくことにした。
「ねぇ、冴子さん。今回の事件はさほど難しい事件じゃないように思うんすっけどね。だって、被害者二人は過去に繋がりがあったわけだし、その線で捜査を進めていったら、自然と容疑者が浮かんでくるんじゃないっすか?僕の鋭い推理によりますとですね、犯人はきっと被害者の顔見知りっスヨ」
 糸永は得意げにそういって、人差し指で鼻面を擦る。
「そうだといいんだけど」
 冴子は呟くように言ってから、いまだに湯気の立ち上るラーメンのお椀をじっと見つめていた。


直線上に配置


<3>
 北野純香は、仏壇の前で手を合わせる。
「お父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん。純香は無事に戻ってきました。」
 そう呟いて、線香に火を燈す。
 純香の祖父と祖母は、純香が生まれる前に既に他界していたのだが、両親のほうは、純香が物心つく前に交通事故で亡くなったと聞いている。そのため、勿論祖父と祖母の生前の姿など見たことは無いし、両親のほうもおぼろげにしか覚えていない。兄の話だと、両親が亡くなったのは、純香がまだ幼稚園の頃だそうだ。
 純香はこの家で、兄と二人で過ごしてきた。無論、両親が亡くなったときは兄の春人も中学生であったから、収入などあるはずも無く、隣人の『吉良』(きら)家によく世話をみてもらったのである。

…あとで隣のおばちゃん達にも、挨拶しとかなくっちゃ。

 純香は立ち上がり、もう一度だけ仏壇に手を合わせた。
 そんな事情もあり、兄の春人は中学を卒業すると、高校へは行かずに近くの印刷工場に就職を決めた。そこで働き始めて、もう十五年ほどになるだろうか。春人は、いまだにその印刷工場に勤めているらしい。

…お兄ちゃんにも、いろいろ迷惑かけたなぁ。

 純香はいまさらながら、そう思う。兄の春人は、純香に対してずいぶんと優しかった。物腰の柔らかい喋り方…。決して喜怒哀楽の激しいタイプではなかったが、純香はここまで自分を育ててくれた兄のことを尊敬し、勿論、兄妹としての好意も持っていた。兄の春人は、純香が胸を張って自慢できる唯一の肉親なのだ。

…だけど…。

 春人は、純香に何か隠し事を持っているようであった。否、春人だけではない。隣人の夫婦も純香に対して、何か隠し事を持っている。なにを隠しているのかは知らないが、それはきっと『弟のこと』ではないのだろうか。

…私より、ひとつ年下の弟。

 春人も、隣の人間も、何故かそのことを詳しく話したがらないのだ。そのため純香は、弟の吉行(よしゆき)がいつごろから姿を消したのか知らないでいた。

…何かを隠している。

 それは春人や隣人だけではない。この近辺の人間たちも、何故かよそよそしかったり、身に覚えの無い同情を振りまかれたり…。しかしそれは、幼い時分に両親を亡くした自分への同情なのだろう、と純香は今まで思っていたのだが、高校に入ってからは、そうは思えなくなってきていた。

…一体、私が幼い頃になにがあったと言うのだろう?

      ピ〜ヒャラ ドンドン ピ〜ヒャラ ドンドン

 不意に遠方から、笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。

…そういえば、もうすぐ夏祭りか。

 その音は、恐らく盆祭りで子供たち披露する楽器の音であろう。今はどこかで、皆そろって練習をしているのだ。純香も小学生の頃は、その練習にサボることなく参加したものである。祭りの日には、部落の者たちが集まり、その音にあわせて独特の盆踊りを踊りだす。広場には出店が並び、花火が打ち上げられる。…決して大きな祭りではなかったが、純香はその祭りが大好きであった。いつのことだったかは忘れたが、ある男の子に俺と一緒に祭りを見に行かないか、と誘われたことがある。その誘ってくれた男の子は、純香も気に掛けていた男の子だったので、ずいぶんと嬉しかったことを覚えていた。…その日は、その男の子と一緒に花火を見た。

…あれは、中学生の頃だったかな。

 今では良い思いでである。
 そんなことを思い出しながら、あの頃の自分はずいぶん純粋だったと純香は思う。今の自分はどうだろうか?…最近別れた男は、ずいぶんと自分勝手な男であった。少しでも気に食わないことがあれば、純香に怒鳴り散らし、暴力を振るうまでは無かったが、関係の無いことでも八つ当たりなどをされ、長い間険悪なムードが続いていたように思う。おまけに、手もつけられないほどの浮気性で、とっかえひっかえ違う女を連れて歩いていた。…そんなことが続いて、痺れを切らした純香が、結局は別れ話を持ち出したのである。それでも、都会暮らしを始めたばかりの純香にとって、彼の存在は少なからずとも大きいものであった。慣れない都会に心細さだけが募る純香にとって、彼はとても優しい存在に思えた。しかし、そう感じていたのも最初のうちだけで、時が経つに連れて、それは百八十度回転したのである。…彼は変わった。否、そう言うには、あまりにも自分を正当化しすぎているかもしれない。きっと自分が変わったのだ、と純香は思う。しょせん、人と人との付き合いは偽善の上で成り立っているものだ。長く付き合うにつれて、その偽善もやがてバナナの皮のように剥がれていき、いずれは現実の自分というものがあらわになる…。
 人間というものは、あまりにも無責任な理想を抱えているものだ。それは家庭にしてもしかり、仕事にしてもしかり、そして恋愛にしてもしかりだ。町に溢れるもののほとんどが、手を伸ばせば驚くほど簡単に手に入る。しかし、それを手に入れて初めて、それが紙くず同然のものだと気づくのだろう。…理想と現実はやはり違うものなのだ、ということを純香はしみじみ心に感じた。

        ピ〜ヒャラ ドンドン ピ〜ヒャラ ドンドン

 かすかに聞こえる笛の音や太鼓の音に耳を澄ませながら、純香は小さな溜め息をついた。あと五日後には夏祭りの本番である。子供たちの練習は、うまくいっているのであろうか。
 そんなことを思いながら、純香はおもむろに仏壇の前を去った。

                  ※※※

 三人は天使…否、彼のあとを追いかけていた。彼はずいぶんと森の奥のほうへと逃げていくが、三人がその後姿を見失うことは無い。
(おい、待てよ、人殺し)
 三人のうちの一人、染谷俊彦が『天使』に向かって言う。その表情は、実に楽しそうな、それでいて子供特有の残酷な笑みが浮かんでいる。
(おとなしく警察にいけよ、人殺し)
 三人のうちのもう一人、青木祐介が染谷と同じような表情で、『天使』の後姿を追いかける。
(お前はきっと死刑だぞ!)
 そしてもう一人、穴井圭造(あないけいぞう)が冷酷な声を発する。
 この三人が本気を出して走れば、『天使』には安易に追いつくことができるのだが、三人はあえてそうしなかった。もう少しこの鬼ごっこを楽しみたい、もう少し『天使』の動揺ぶりを見ていたい…。三人にはそういう気持ちがあったのだ。
(もっと早く走れよ)
(早く走らないと、追いつくぞ)
(俺たちに捕まれば、お前は死刑だ!)
 天使の姿をした彼は、三人の声に急き立てられるかのように、無我夢中で走っている。
(僕じゃない、僕は何もやってない!)
 悲痛な『天使』の叫び声が森の中に響き渡るが、その声は薄暗くなり始めた夜の帳にかき消されるだけであった。
(ほら、早く逃げろよ。捕まえるぞ)
 三人が手を伸ばす。
 三人の手が、『天使』の後ろ背に付いた翼を掴んだ。

                 ブチッ

 翼のちぎれる音。それと同時に、前のめりに転げる天使の姿をした彼。
(あははは、転んだ、転んだ)
(あははははっ)
(あはははははははっ)
 三人は立ち止まり、声高らかに笑う。
 『天使』はおもむろに立ち上がると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を三人のほうへ向けた。

(僕の…僕の翼を返しておくれ)

 震える声で、『天使』は呟くようにそういった。