第三章
堕天使
<1>
八月十六日、午前九時…。
新藤冴子と糸永慎二は、O県のK村に向かっていた。十五年前に、例の事件が起きた村である。ハンドルを握っているのは珍しく冴子のほうで、糸永は助手席で眠そうなあくびを漏らしていた。
昨夜は穴井圭造の死体発見で、署内はずいぶんと騒がしくなった。そのため、冴子たちは一睡もしていない。疲労はかなり溜まっていたが、家に帰ってゆっくりと寝ている暇などなかった。穴井が電話で漏らした、ある人物の名前…。
…北野吉行。
冴子はそのことを捜査本部長に報告し、十五年前の事件を洗いなおすべきだと主張したのだが、あと何日かで時効となる事件、ましてや手掛かりが圧倒的に少ないそんな事件に人員は割けない、部長は難色を示したのだが、被害者の口から吉行の名前がでた以上、十五年前の事件を洗いなおさないわけにはいかなかった。そこで、冴子と糸永のコンビがK村に赴き、聞き込みをすることになったのである。
いま、車はちょうど高速道路に乗ったところで、目的地にはあと一時間ぐらい掛かる予定である。
「ねえ、冴子さん…」
糸永が眠そうに目をこすりながら、冴子に尋ねてくる。
「…本当に犯人は、染谷と青木を殺した犯人と同一人物なんスカね?もしそうなら、どうして今回は『穴井の手に白い羽根が握られていなかった』んすか?」
そうなのである。今回の被害者の手には、白い羽根が握らされてなかったのである。今までの事件の流れからすると、被害者の手に羽根が握られていてしかるべきなのだが、それがなかったのである。しかし、検案の結果、使われた凶器などは一連の事件と同一のものと判明しており、殺害状況も酷似している。
「へぇ、あなたにしてはまともな指摘ね」
冴子は少し皮肉を込めてそういった。
「当たり前じゃないっすか。僕はまかりなりともO県警の第一課の刑事なんスヨ。しかもかなり敏腕」
糸永も疲労が溜まっているためか、ある意味、開き直っているところがあるようだ。冴子は軽く糸永の言葉を受け流す。
「それで、穴井圭造の殺害は…、冴子さんはどう見てるんすか?」
「私は、同一人物だと思ってるわよ。殺害状況も凶器も一致してるからね」
「じゃあ、どうして犯人は、今回に限って白い羽根を被害者の手のひらに握らせなかったんすか?確かに、現場の状況から見れば、便乗殺人の線は薄いっすけどね。マスコミに知らせていないとこまで似ているし」
それは、たとえば染谷と青木に使われた刃物などがそうである。マスコミには、鋭利な刃物としか伝えていないはずなのだが、穴井殺害に使われた凶器は、傷口の形状や刃渡りまでもが一致しているのである。
となると、糸永の言うとおり、『白い羽根』が問題となってくるのであるが、冴子にはいくつかの考えが浮かんでいた。
「まず一つは、犯人がただ単に羽根を握らせるのを忘れた、てことが考えられるわね」
「冗談でしょう?もしこの事件が推理小説の類だったら、それはブーイングものっすよ。それに、指紋も証拠も残していない犯人が、そんな事忘れたりしますかね」
「糸永君、一応言っておくけど、この事件はあなたが好きな小説やドラマじゃないのよ」
「そんな事は解ってますけど、なんかそれじゃあ納得いきませんよ」
冴子はうなずく。
「確かにそうね。あなたの言うとおり、指紋も証拠も一切残さない用意周到な犯人が、そんなことを忘れるとは思えないわ」
「それじゃあ…」
糸永が何か言おうとするが、冴子がそれをさえぎる。
「二つ目は、犯人に時間がなかった場合」
「それも考えにくいでしょう。だって、死体は死後二十分以上は経っていたんすから。ただ被害者の手のひらに、白い羽根を握らせるだけでしょう?何分も掛かりませんよ」
冴子は再びうなずく。
「そうね、私もそう思うわ。…それにしても、今日のあなたはなかなかに冴えてるわね。少し寝不足のほうが、あなたにはいいんじゃないの?」
「余計なお世話っす」
今日の糸永は、冴えてる代わりに少々不機嫌らしい。返答がずいぶんとまともだ。
冴子は続ける。
「あと一つはね、『穴井圭造で最後だった』場合。つまり、穴井を殺したことで、犯人の目的は達成されたの」
冴子が言うと、糸永は一瞬不意打ちでも喰らったかのように、垂れ気味の目を大きく見開き、暫く間をとった後で、
「へっ?」
と、間抜けな声を発した。
「あ、あの冴子さん、どういう意味っすか?穴井が最後だとか、犯人の目的達成とか…」
「これは、飽く迄も私の推測なんだけど…。あの白い羽根は、『警告』だったんじゃないかしら。勿論、それは殺された三人と犯人にしか意味の解らないもの。つまり、被害者に白い羽根を握らせることで、犯人は生き残っているものを『威嚇』していたのよ。次はお前の番だぞ、ってな具合にね。犯人は、最初から染谷、青木、穴井を殺すつもりでいたから、最後に残っていた穴井を殺すことで、もう威嚇する相手がいなくなった。だから、犯人は白い羽根を穴井に握らせる必要が無くなった。…どうかしら?」
「なるほど…。じゃあ、同一犯人による殺人は、もう起きないってことっすか?」
「そうなるわね」
冴子がそう答えると、糸永は暫く間をあけ、それから尋ねてきた。
「最初から三人を殺すつもりだったってことは、犯人には三人を殺害する明確な動機があったってことっすよね」
「それを浮き出させるのは、北野吉行なのよ」
「どういうことっすか?」
「十五年前、K村で起きた殺人事件。三人はそこで、『何かを目撃したがために殺された』んじゃないかしら?」
「ち、ちょっと待ってくださいよ。殺された三人は、十五年前の事件に何か関係してるんですか!?」
「そう思うわね」
「一体なにを目撃したというんです?」
糸永に尋ねられ、冴子は切れ長の鋭い眼光を助手席に向ける。
「北野吉行が、両親を殺害している現場…」
一瞬、車内がしんと静まり返る。糸永は、今まで助手席の背もたれに沈むように座っていたが、いきなり半身を起こすと、
「そんな馬鹿なことが!」
と、甲高い声で喚くように叫んだ。
「北野吉行が両親を殺害した、て…、彼は当時幼稚園児っスヨ。それに、警察の懸命な捜査にもかかわらず、行方不明のまま。それに、どうして今頃になって、そんなことを!?」
「あなたも憶えてるでしょう?染谷が借金に追われていたってことを。それなのに、友人たちには近々大金が入る、って豪語していた…」
冴子がそこまで言い終わると、糸永はぽんと手を叩いた。
「そうか、『脅迫』か!」
「そうよ。借金の返済に困った染谷は、十五年前の事件のことを思い出し、北野吉行を脅迫した。時効寸前のことだから、脅迫の効果は絶大だったでしょうね」
「そういうことか。それで、吉行は染谷をD公園に呼び出し…金でも渡す、とか言ったんでしょうね…そしてそこで、染谷を殺した。…でも冴子さん、染谷は別として、青木と穴井はそんな大金が入るような情報はないっすよ」
「それは恐らく、染谷が単独でやったことでしょうね。もし、三人が三人で北野吉行を脅迫していたのなら、何らかの連絡を取り合ってたはずでしょう?でも、そんな痕跡はない」
「だけど、その脅迫で恐れをなした犯人は、残りの二人も殺したって訳ですか…」
糸永が、冴子のあとを続けた。
高速道路の前方は熱射のため、薄惚けた陽炎を立ち昇らせている。じっと見つめていると、どこかしら蜃気楼でも見えてきそうな、そんな錯覚にとらわれそうになる。これも疲労のせいだろうか。
「でも冴子さん。北野吉行は、当時四歳。しかも殺害したのは自分の親。それに加え、自分で姿をくらますなんて…、そんなことがありうるんですかね?」
糸永は、再び背もたれに深くもたれると、一つ大きな溜め息をついて、そう尋ねた。
「常識的には考えにくいわね。でも、糸永君。捜査に先入観は禁物よ。その可能性が消えない限り、やっぱり頭にとどめておくべきだわ」
「だけど…」
糸永は、さらに食い下がろうとするが、冴子はそれを制し、表情を緩めた。
「解ってるわよ。前にも言ったように、ただの個人的な推測に過ぎない、て言ったでしょう。私だって、本気で幼稚園児が、自分の両親を殺して、姿をくらますなんてことは考えてないわ。だけど、現時点では、その推測が一番成り立ってるように思えるの」
冴子がそういうと、糸永は思い出したように懐から煙草を取り出し、口にくわえた。
「北野吉行は十五年前の事件当時、天使の格好をしていたんでしょう?もし、今回の事件の犯人が、冴子さんの言うとおり北野吉行だとすると、まさに復讐に燃える堕天使っすね…」
呟くように言って、おもむろに煙草に火をつけた。
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<2>
朝、北野純香が目覚めたとき、既に兄の春人の姿は家の中になかった。恐らく、早朝の散歩にでも出掛けたのだろう。春人の習慣である。
純香は昨日にも増して憂鬱であった。何故なら、一昨日の晩、つまり、純香が実家に帰る前日の夜に、もう一人死んでいたという事実を知ったからである。本来なら、昨日知りうるべきことを、純香は今日まで知らないでいた。勿論、その事実は、今日マスコミに流されたことであるから、純香が知らないのも無理のないことであるが、純香は頭のどこかで、その『予感』を感じていたのだ。
穴井圭造の死。それは純香にはごく自然なことのように思えた。無論、そのこと自体は純香にとって大きなショックではあったが、何かしらそれが当然であるかのごとくに感じていた。
…どうしてだろう?
自分に問いただしてみても、その答えは得られない。
…あの三人は、昔仲がよかったから?
否、そんなことではない、そんなことではないのだ。
(殺されて当然の奴らさ)
昨日の吉良亮二の言葉が、純香の頭の中に甦る。
純香は、落ち着きなく家の中を歩き回る。兄の春人は、穴井圭造の死を既に知っているのであろうか?
家の外では、騒がしいくらいに蝉時雨が飛び交い、夏の蒸し暑さを精神的に増幅させる。そんな状況に、純香は苛々したものを感じて、髪の毛をかきむしるようにしてその場に座り込んだ。
…父さんと、母さんが殺された。
(いい加減にしないか!)
(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)
(やめろよ!)
…あれは、あの声は…?
頭が痛む。夏風邪でもひいたのだろうか。それとも、無理に記憶の封印をとこうとするために起きるものなのだろうか。
純香は大きく溜め息をつくと、天井を見上げた。
そんな時、玄関の開く音が聞こえた。
…お兄ちゃんだ。
純香は反射的にそう思い、玄関のほうへ駆け寄った。
そこにはやはり、兄の春人が立っており、額に浮いた汗を右手でぬぐっているところであった。
「どうした純香?朝から家の中を走り回ったりして」
春人は、軽く微笑みながら純香を見やる。
「お兄ちゃん、穴井さんが…」
純香は、顔を曇らせて兄に今朝のことを伝えようとするが、何故かそのことを伝えるのが躊躇われて、語尾のほうが小声になってしまう。しかし、春人は妹がなにを言わんとしているのが解ったようで、純香と同じように顔を曇らせて、ああ、知ってるよ…と、うつむいた。
「だけどな、純香。そんなに暗い顔をしたって、なにがどうなるわけじゃないんだ。確かに、死んだ三人は知らない人間じゃないけど、俺たちには関係のないことだ…冷たい言い方かもしれないけどな」
「そうかもしれないけど…、だけど…」
純香は言いかけて、途中でやめた。
…だけど…なんなのだろう?
自分に問いかけるが、やはり答えは導き出せない。
…なんなのだろう、この胸のもやもやは?
なんとなく、胸の辺りがむかむかする。特別に気分が悪いわけではなかったが、どうもすっきりしない。
…俺たちには関係ないって、本当に?
何故か、頭の中にそんな言葉が浮かぶ。しかし、純香はそれを声に出して言うことはない。
やがて、玄関口に立ち尽くしていた春人は、靴を脱ぎ、家の中へおもむろに入っていく。
純香は、そんな兄の後姿を、ただ無言で見つめているだけであった。
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<3>
新藤冴子と糸永慎二の乗った車は、ようやくK村へと到着した。和やかな田園風景の広がるその場所は、おおよそ十五年前にあの陰湿な殺人事件が起きた場所であるとは、到底思えない。空には鳥が舞い、肌をやかんばかりの太陽は爛々として輝いているが、そこに吹く風は遥として涼しげである。四方のいたるところからは蝉たちの声が響き、新藤冴子は円形のサングラスを掛け、車を降りた。
「へぇ、中々いいところっすね」
糸永も車を降り、大きく背伸びをする。
「さて、どこから手をつけていくんすか?冴子さん」
糸永に尋ねられ、冴子はその場で腕を組む。
「そうねぇ、とりあえずはここら近辺で何らかの情報を集めましょうか。そのあとで、被害者の家に行くって言うのはどうかしら?」
「それが妥当っすね」
糸永はうなずき、後頭部で手を組みながら歩き出した。
暫くは、目に付いた民家や店に立ち寄り、事件当時の状況や村の様子などを聞き込んでみた。K村は、それほど大きな村落ではないので、どうやら部落のもの皆が顔見知りであるらしい。しかし、十五年も昔の事件のことだ。これといってめぼしい情報や、目新しい情報など手にはいらなかったが、それは予想されていたことなので、別段冴子たちは落ち込む様子も無く、ただ淡々と聞き込みを繰り返していた。
二時間ほど歩き回っただろうか、ほとんどの民家は廻れたようである。
「冴子さん、僕、腹減ったす」
舗装されていない、狭い農道を歩きながら、糸永は鼻の頭に浮いた少量の汗を親指でぬぐいながら、なんとも疲れ切った様子で呟くように言ってきた。
糸永にそういわれ、冴子がおもむろに腕時計に目をやると、時刻は既に午後の一時を廻っていた。
「そうね、どこかで一休みしましょうか。昼食をとった後で、北野さんの家に向かっても遅くはないでしょう」
そういって、冴子は歩き始めた。
寂れた小さな定食屋を出る頃には、時刻は既に二時を廻っていた。
「店の雰囲気は悪かったっすけど、僕の食べた生姜焼きは中々うまかったスヨ。冴子さんのとんかつ定食はどうでした?」
爪楊枝を口で弄びながら、糸永は呑気にそんなことを聞いてくる。
冴子はそんな糸永を無視して、足早に北野家に向けて歩みを進めていた。
…北野吉行が生きていたら…。
冴子は考えていた。もし仮に、冴子の推測通り、北野吉行が生きていて、今回の白い羽根殺人事件の犯人だとしたならば、北野家はどうするのだろうか。その事実を素直に受け止めるのであろうか。否、そんなことではない。北野家が吉行の身柄を匿っていたとしたら、自分たちはどういう出方をすればよいのか。勿論そうであるなら、北野家はそのことを巧妙に隠そうとするだろう。もしそうなれば…。
冴子の頭の中には、とめどなく『もし』という言葉が溢れてくる。
「冴子さん、見えてきましたよ。あの家でしょう?」
糸永が、前方に見えてきた一つの大きな家を指差す。そのすぐ右隣にも、塀を隔てて一軒の家が建っていた。
「糸永君、先にお隣の家に寄ってみましょう。北野さんの家はそれからでいいわ」
冴子が言うと、糸永は素直にうなずく。
北野家の隣の家の門柱には『吉良』という表札がつけられてあった。鉄門の向こう側には、中型のみずぼらしい雑種犬が寝そべっている。
「あひゃ、ぼ、僕、犬苦手なんすけど!」
妙な悲鳴を上げながら、糸永が一歩後退するが、冴子がそれを引き止める。
「男のくせに、なぁに情けないこといってるのよ。仕事でしょう、しごと」
そういいながら、糸永の背中を力強く押し、冴子はわざと糸永の体を犬の前に押しやった。
「や、やめてくださいよ、冴子さん!わっ、ちょっと、マジやばいって」
騒がしい糸永の声に気づいたのか、雑種犬はゆっくりと重そうなまぶたを開き、糸永を一瞥するが、けだるそうに再び目を閉じた。
糸永は胸をなでおろし、大きく溜め息をついて、少々怒ったような表情で冴子のほうを振り向こうとするが、冴子は既に、吉良家の玄関前に立っていた。
冴子はインターホンを押す。それからややあって、一人の男が部屋の中から顔を覗かせた。冴子の見たところ、その男の年齢は二十代前半で、まだ少しのあどけなさを残している顔つきだが、なんとなくその表情に無機質なものを感じる。
「なんですか?」
青年がくぐもった声でそう尋ねてきたので、冴子は懐から警察手帳を取り出して、こういうものですけど、と手帳を一瞬青年の前に差し出した。一般の善良な市民は、こうした突然の警察の来訪に、多少なりとも驚きの表情を見せるのだが、その青年の表情からは、そういうものは読み取れない。
「なにか、あったんですか?」
飽く迄も、無機質な表情で青年は尋ねてくる。
「ええ、ちょっとお尋ねしたいことがありまして…」
冴子は、サングラスをはずしてポケットにしまう。
「…失礼ですけど、あなたはこの家の息子さん?」
「そうです」
「お父さんか、お母さんはいらっしゃるかしら?」
「二人とも外出してます。今日は帰ってきませんよ」
「そうですか…」
冴子はそれを聞いて、この家での聞き込みは断念しようかと思った。その時、青年が呟くように突然ぼそりといった。
「染谷たちのことですか?」
冴子は、はっとする。
「殺された三人のことを知ってるの?お友達かなにか?」
「はん、冗談じゃないですよ。あんな奴らと友達なわけがない。頼まれても願い下げですよ」
青年は、汚らわしいものでも見たかのような表情ではき捨てる。
「あなた、お名前は?」
「そんな事、事件に関係あるんですか?」
「いいえ。ただ聞いただけよ」
すると青年は少しの間を空けて、
「亮二です。吉良亮二」
と、無愛想に答えた。
「亮二君、ね。…亮二君は十五年前、隣の家で起きた事件のことは知ってるかしら?」
冴子がそう尋ねると、今まで無表情だった青年の顔に、少しだけ不意を突かれたようなものが見て取れた。
「あんたら、市内で起きた事件を調べてるんじゃないのか?どうして十五年前の事件なんか…」
「それがね、あるかもしれないんです。まだはっきりとは言えないんですけど」
「どういうことだ?」
青年…吉良亮二は、眉間に皺を寄せて、冴子の顔をを睨みつけるようにして窺うが、冴子はあえてそのことを口にせず、挑戦的な眼差しで亮二の視線を跳ね返す。
暫くは、その状態のままで沈黙が続いたが、ややあって、亮二はふんと鼻を鳴らし、冴子から目をそらした。そして、天使の仕業か?と、うつむいたまま冴子に尋ねてきた。
「なにか知ってるのね?」
冴子が逆に尋ね返すと、青年はようやく顔を上げ、おもむろにうなずいた。
「はじめに染谷が殺されて、その手に白い羽根が握らされていたってニュースで聞いたとき、なんとなく俺は勘付いたよ。あれは天使に殺されたんだろうな、って。なんて名前だったかな?…ああ、確か『吉行』だっけ?北野吉行。…十五年前、あの事件が起きた時、俺、そいつの姿見てるんですよ。ちょうど夏祭りのときだった…」
亮二はそう言って、遠くを見るような眼差しで目を細める。
「あの時、ある理由で俺は夏祭りには行かないで、自分の家の庭で花を弄ってた。多分、自分で植えた花が初めて咲いたのがうれしくって、それをじっと眺めてたんだと思うけど。…親父とお袋は、祭りに出ていて家にはいなかった。…俺が、そんなふうに花を眺めていると、いきなり隣の家から悲鳴が聞こえたんだ。何事かと思って、台を使って庭の塀越しに隣の家を覗いてみたけど、中の様子が見えるわけでもなかった。それでも、俺は気になってずっと見てたんだけど、突然、隣の家の裏口が開いて、天使がそこから出てきたんだ。森のほうへ走っていってた。そして、そのあとを追うように、染谷、青木、穴井が森のほうへ走っていったよ」
「森の方?」
冴子は、切れ長の細い目を、さらに細める。
「ああ、この家の裏側を抜けて少し行った所が森になってるんだよ。滅多に人が寄り付かないし、昼間でも薄暗いところさ。樹海ってほどではないけどね。…ずいぶん前に、俺もその森に行ったことがあるけど、薄気味悪いところさ」
冴子はうなずくと、ちらりと家の裏手の方に視線を向けてみたが、家自体が邪魔になって、よく確認できなかった。
…やっぱり殺された三人は、十五年前の事件に、なんらか関係してるみたいね。
冴子は腕を組み、前髪をかきあげる。
「それで、結局四人は戻ってきたの?」
「さあね、そこまで知らないよ。暫く経ってから、パトカーのサイレンの音が近づいてきたんで、隣の家を覗いてみたら、隣の兄ちゃんが血だらけになった親を抱えて、おいおい泣いてたよ。勿論、俺は警察にその場を追い出されたけど」
「隣の夫婦は、生前どんな感じだった?」
「そんなの知らないし、よく憶えてもないよ。十五年も前の話だ。俺は幼稚園児だったんだぜ。…でも、俺の親が言うには、あまり仲のいい夫婦とはいえなかったらしいよ。しょちゅう喧嘩してたらしい。あれじゃ、子供が可哀想だとか言ってたな。それこそ、隣に聞けばいいだろう?」
青年はそう言って、無機質な表情を少し歪ませた。
「…もういいだろう、刑事さん?あとは隣に聞いてくれよ。俺には関係ないことだ」
と、無遠慮にドアを閉めようとする。
「ち、ちょっと待って!」
冴子は慌てて閉まりかけるドアを押しとどめると、吉良亮二に尋ねた。
「ねえ、吉行君たちが森の方に言ったって話は、誰かにしたの?」
すると青年は、ふんと鼻を鳴らす。
「親には言ったけど…、さっきも言ったとおり、当時俺は五歳の幼稚園児だ。まともに取り合ってはくれなかったさ」
亮二は吐き捨てるようにそれだけ言う。
「あと一つだけ、いいかしら?」
「なんだよ」
「さっき、事件当日の夏祭りに、あなたはある理由でいかなかったって言ったわよね?それってなんなの?」
冴子が尋ねると、亮二は少しだけ躊躇いの表情を見せたが、すぐに無機質な表情に戻ると、
「憶えてない…」
と言って、ばたりとドアを閉じた。
…森の方、ね。
暫く冴子は、腕を組んだままその場に立ち尽くしていた。
冴子が吉良家の鉄門を抜け、敷地を出ると、糸永慎二が辺りをきょろきょろとしながら、そこに立っていた。
「そういえば、なんか静かだと思ったら…。あなた、どこに行ってたの?」
冴子が渋顔で尋ねると、糸永は苦笑いを浮かべて、
「僕、やっぱり犬が駄目っす」
と、スポーツ刈りの頭を掻いた。
冴子は、そんな糸永の頭を力強くはつると、
「隣に行くわよ!」
と、糸永を一喝するように言った。
糸永は、今にも泣き出しそうな表情でうなずくと、冴子に叩かれた頭を撫ぜながら、渋々冴子のあとをついていった。
吉良家のすぐ左隣の門柱には『北野』と書かれた表札が掛けられてある。鉄門の向こうには側には、隣家とは対照的な体躯の良い柴犬がこちらを睨みつけて、ウウッと低く唸っている。恐らく鉄門を開けたとたんに吠え掛かってくるつもりなのだろう。鎖でつながれているものの、態勢を低く構えていて、いつでも飛びかかれるようにしているようだ。
「ちょっと勘弁してくださいよ。なんでここにも、あんな犬がいるんすか。しかもさっきの犬とは違って、かなり好戦的な態度っスヨ…」
糸永は顔を顰め、甲高な、いかにもひ弱な声を発して、冴子の顔を見る。
「さあ、呼び鈴は鉄門の向こうの玄関にあるわよ。どうする糸永君?」
冴子はわざとらしい笑みを浮かべて、糸永を挑発する。
「どうするって…、冴子さんが行ってきて下さいよ。到底僕には無理な話っすよ」
「あら、また仕事をサボるつもり?まぁ、私は別に構わないけど。ただ、事実を部長に報告するだけよ」
「そんなぁ、そりゃないでしょう。これって、半分イジメっすよ」
糸永は、再び今にも泣き出しそうな表情で冴子にしがみつこうとするが、冴子はどこ吹く風といった感じである。
「…ああ、そうっすか。解りましたよ。行けばいいでしょう、行けば!ふん、たかが犬ごときで、この僕が本当にビビルとおもってるんすか!?」
糸永は、完全に開き直った様子で冴子にそう吐き捨てると、鼻息荒く勇んで鉄門に手を掛けた。それと同時に、態勢を低くしていた犬が、けたたましく糸永に吠え掛かってきたのである。
「ひゃぁ!」
糸永は、一声甲高い悲鳴を上げると、脱兎のごとく両腕を高く掲げ、どことも知れぬところへ駆けていった。
一人取り残された冴子は、そんな糸永の後姿を眼で追いながら、大きな溜め息をつくと、いまだ吠え掛かってくる犬をも気に留めず、北野家の鉄門をくぐっていった。
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<4>
玄関越しから、犬の鳴き声が聞こえてくる。どうやらそれは五郎の鳴き声らしい。ということは、誰か人でも来たのだろうか。
北野純香が、よくとおる犬の泣き声を耳にしながら、そんなことを考えていると、案の定呼び鈴が鳴った。
「誰か来たのか?」
テーブルに置かれていた煎餅をほうばりながら、兄の春人が腰を浮かせようとしたが、純香がそれを制し、いいわ私が行ってくるから、とソファから立ち上がった。
尚も五郎は来客人に向かって吠え続けているようで、その吠え声はやむ気配がない。早く来客人を玄関内に入れなければさぞかし迷惑していることであろう、と純香は急ぎ足で、玄関を開けた。
はい、といって玄関を開けると、そこには見覚えのない、スーツ姿の長身の女性が立っていた。薄紫色に染まった肩まである髪の毛に、少しきつめの紺色のアイシャドウが目立つ化粧をしたその女性は、純香の顔を見るとにこりと微笑み、懐から黒革の手帳を差し出した。
…警察!?
純香は驚き、少しばかり身を引いてしまったが、すぐにそれを取り繕うと、
「あのぉ、なにかあったんでしょうか…?」
と切り出した。
「こんにちは。私はO県警の新藤というものなんですけど…、北野純香さんですね?」
新藤と名乗ったその女刑事は、純香にそう尋ねると、返事を待つかのようにして純香の顔をじっと見つめる。
純香が不安な面持ちでゆっくりうなずくと、とりあえずは、犬の鳴き声がうるさいので、刑事を玄関口に招きいれて扉を閉めた。するとようやく、五郎は吠えることをやめる。
女刑事は犬の鳴き声がやんでのことか、小さい溜め息をつくと、再び純香の目をまっすぐ見つめて尋ねてくる。
「純香さんはこちらのほうへ帰ってる、という情報があったものですからね。…えっと、確かお兄さんがいらっしゃると思うんですけど?」
「えっ、は、はい。呼びましょうか?」
「ええ、お願いするわ」
女刑事に言われ、純香は声を上げて兄を呼んだ。
「お兄ちゃん、ちょっとこっち来て!」
ややあって春人が姿を現すと、女刑事は軽く会釈して、純香に言ったような簡単な自己紹介を済ませる。
「なにかあったんですか?」
訝しげにそう尋ねる春人の顔は、心なしか少し血の気が引いて、蒼白に見える。
「市内で起きてる事件をご存知ですよね?染谷俊彦、青木祐介、穴井圭造…」
「はい、三人ともここの出身ですからね。子供の頃は、よく一緒に遊んでましたよ」
春人はうなずくが、その動作にはどことなく力が抜けているような感がある。
「そのうちの一人、穴井圭造が…恐らく殺害される直前と思われるんですが…、警察のほうに電話してるんです」
「なんですって!?」
突然、兄が大声で頓狂な声を上げたので、純香は驚き、ぴくりと一瞬体を震わせた。
「そ、それで、なんと言って…」
女刑事はそう問われて、暫く口を閉ざすがややあって、
「犯人は、北野吉行だ…と」
呟くように言った。しかし、その目には一片のにごりもない鋭い光が純香と春人を捉えているような、そんな感じを純香は受けていた。
勿論、純香はその名を聞いてずいぶんと驚いたのだが、それは兄の春人も同じようで、一瞬きょとんとした表情を見せたかと思うと、次の瞬間には大きな笑い声に変わっていた。
「ははははっ、刑事さん、それは本当ですか?吉行が生きてるんですか?吉行が生きていて、三人を殺したと?何のために?」
春人の突然の笑い声に、女刑事は少々面喰った様で、暫くの間、押し黙ったかのように二人の様子を窺っていたが、一度咳払いをし、態勢を立て直すと、
「実は十五年前、お宅で起きた事件を目撃した、という情報がはいりまして…」
と、ゆっくり言葉を告いだ。
新藤刑事がそう告げた途端、春人の表情が凍りついたかのように固まり、笑い声が急に途切れた。
「…といっても、殺害現場を直接見たわけではなく、先日頃された三人と、あなた方の弟さんの吉行君が、『この家から出て行く』のを目撃したらしいんです」
「どういうことなんでしょうか?」
今度は純香が尋ねる。
「詳しいことは解りませんけど、目撃者の話では、吉行君が三人に追われているようだった…と。そして、そのまま吉行君は姿を消した…」
「ちょっと待ってください。…つまり、私たちの両親が殺されたときに、染谷さんたちはここにいたというんですか?十五年前の事件に、なんらか関係してるんですか?」
純香の頭の中で、なにかどす黒いものが蠢く。それは実に暗澹としていて、ジャングルの奥に潜む大蛇のようにとぐろを巻いている。しかし、その暗黒に満ちたとぐろが、少しずつほつれていくような、そんな感じが純香にはしていた。昔に見た映画が、突然頭の中に浮かび上がり、そしてノイズを伴ったような声が…。
(お前が殺したのか?)
(違う、僕じゃないよ)
(嘘つけ、お前が殺したんだ!)
(違う、違う、僕じゃないよ!)
(みんな、あいつは人殺しだぞ、捕まえろ!)
(いやだ!)
キーンと、耳鳴りがした。
…ああ…。
純香は眩暈を感じて、その場でふらつくが、春人と刑事には気づかれなかったようである。
「それで、刑事さんはなにが言いたいんですか?確かに、あの時、いつもは閉めている裏口の鍵は開けてましたけど、それと今回の事件とはどんな繋がりがあるんです?ましてや弟が生きていて、染谷たちを殺したなど、一体どんな根拠があるんです?」
何故か、春人は憮然とした様子でそうまくし立てる。
「まだ詳しいことはいえません。ただ、そういう新事実が浮かび上がった以上、私たち警察はもう一度、十五年前の事件を洗いなおすつもりなんですよ」
女刑事は淡々と言う。
「ふん、なにを今更…。もう時効まで、一週間もないんです。僕たちのことはほっといてくれませんか。今更両親を殺した犯人を見つけたところで、少なくとも僕は何の感慨も持ちませんよ。もう、両親は帰ってはこないんですから…」
「そうでしょうね。あなたたちに再び迷惑を掛けるのは、百も承知です。でも、事件解決のためなんです。協力してください」
「…僕たちに、なにをしろと?」
「簡単なことです。今日のところは、私の質問に答えてくれるだけでいいんですから」
女刑事は言うと、少しの間をおいて質問を始めた。
「行方不明の弟さんから、何らかの連絡はなかったですか?」
「あるわけがない!十五年のあのときから、弟の姿も見てないし、声も聞いてない。僕はもう、あきらめていますよ…」
「あなたがたの両親を、恨んでいたような人はいなかった?」
「そんな質問なら、むかし嫌というほど警察に何度も聞かれましたけど、一切そんなことは解りません。当時、僕は中学生だ。大人の事情など解るはずがない」
「あなた方の両親は、あまり仲が良くなかったと聞いてますが」
女刑事の突っ込んだ質問に、春人は一瞬怒りの表情を見せたが、すぐにその表情を曇らすと、
「それは、事実です…」
と、力なく答えた。
暫く三人の間に沈黙が訪れた。
純香は気分が悪くなり、立っているのもやっとだったのだが、目を瞑って必死にそれに耐える。
「もう…いいですか?」
ようやく口を開いたのは、春人であった。なにやら考え事に耽っているようだった女刑事は、春人の声にふと我に返ったような表情を見せると、
「そうですね、今日はもうじゅうぶんです」
と、今までの鋭い眼光を瞳から消して、笑顔を浮かべた。
「また近いうちにお邪魔するかもしれませんが、そのときは連絡します。なにか他に思い出したことでもあったら、県警のほうに連絡してください。私の名前を出せば繋いでくれるはずですから」
そういって、新藤と名乗る女刑事は軽く会釈すると、静かに玄関を出て行った。
再び五郎の吠え声が聞こえてきたが、それはやがてやむ。
兄の春人は、一瞬純香と目を合わせたが、無言で部屋の奥へと消えていった。
純香は暫くうつむいていたが、青白い顔をしたままで、自分の部屋へ引き返していった。
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<5>
思ったよりも収穫があったかな、と新藤冴子は思う。短い時間ではあったが、それなりに情報を手に入れることができた。
やはり、今回殺害された三人は、十五年前の事件と何らかの関わりがありそうだ。そうなると、いよいよ冴子の推測が正しいことになってくる。事件解決まで、もう余り時間は掛らないはずだ、と冴子は思った。
依然日は高く、蒸し暑い日射を辺りに振りまいてはいたが、そこに吹く風は、やはり都会に比べるとずいぶんと涼しいものだ。この近辺には子供の姿が見当たらないが、今頃は夏休みを大いに楽しんでいるに違いない。
冴子は自分の乗ってきた車のところまでたどり着くと、大きく深呼吸をしてから運転席のドアを開けた。
「ちょっと〜ぉ、どこ行くンすか、冴子さーん!」
向こうのほうから、糸永慎二が手を振りながら駆け寄ってくる。
…そういえば、あんなのがいたっけ。
冴子は、すっかり糸永の存在を忘れていた。
息を切らし、冴子のもとまで駆け寄ってくると、糸永は満面の笑みを浮かべて、どうでしたか?と、相変わらずの甲高い声で尋ねてくる。
「なにが、どうでしたか?よ。さっさと車に乗りなさい!」
冴子は大声で糸永を怒鳴りつけると、自分は目ざとく運転席に乗り込んだ。
「ち、ちょっと、どこに行くンすか?」
糸永も、慌てて助手席に乗り込む。
「どこに行くって、帰るに決まってるでしょう。今日はとりあえず、部長に報告してから、明日またここに来るわ。勿論、あなたが仕事をサボってたことも、ちゃーんと報告するから、そのつもりでいてね」
「そんなぁ!サボってたなんて人聞きの悪いこといわないでくださいよ。それに、明日またここに来るって、明日は昼から捜査会議が入ってるんすよ」
「会議が終わってから来ればいいでしょう?」
「終わってからって、夕方ぐらいっすよ」
「だから?別にいいじゃないの」
「ああっ、明日も残業か…」
「私たちには、残業もへったくれもないの!常に二十四時間態勢なんだから」
冴子がそういうと、糸永はそのまま黙り込んでしまった。どうやら観念したのだろう。
「明日は、しらみつぶしに森の方を散策してみるわ」
冴子は独り言のようにそう呟いて、車を発進させた。
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<6>
ふと、天使が目の前に現れた。白い衣をまとい、背中では大きな翼をはためかせ、空中に浮いている。
(お姉ちゃんは知ってるんでしょう?)
天使はそう呟くと、にんまりと笑った。その笑みが、果たして邪悪なものなのか、そうでないのか、北野純香には解らない。何故かといえば、その天使の顔があまりにも不明瞭で、ぼやけているのである。
…あまり、弟の顔を覚えていないからかな?
純香は、自然とそう思う。なにせ、幼稚園以来、弟の姿は一度も見かけていない。しかし、それなのに、どうして弟の姿が天使の姿と重なるのであろうか?
果てしなく広がる闇の中を歩きながら、やがて純香は見覚えのある場所にたどり着く。
…ここは…。
どうということはない、自分の家のダイニングルームだ。そこに、幼い頃の自分と母親がいて、何か話をしている。
…なにを話してるんだろう?
母親は、幼い純香の額に手のひらを当てたかと思うと、首を小さく横に振り、純香に何かを手渡した。すると、幼い純香は泣き出すのである。
…あれは、薬だ…。
純香は思い出す。十五年前のあの日…、夏祭りの日、純香は風邪をこじらせて高熱を出したのだ。隣家の吉良亮二と一緒に夏祭りを見に行くはずだったのだが、母親がそれを制し、純香に薬を手渡したのである。しかし、幼い純香は平気だから、と母親に食い下がるが、それでも外出は許してもらえず、純香はとうとう泣き出してしまったのだ。
そして純香は、渋々その薬を飲み、自分の部屋に戻って寝ていた。
不意に、物音がした。何かが割れるような音。そして、怒鳴り声。幼い純香は目覚め、自分の部屋を出ると、ダイニングルームをそっと覗いてみた。
床に散らばった、コップや皿の破片。そして、両親の死体。その死体の上に馬乗りになって、誰かが何度もナイフを突き立てている。
…やめて!
そう声を上げようとしたが、怖くてできなかった。体中が震え、純香は凍りついたかのように、その場面をただ黙って擬視している。
ふと、その人物が純香のほうを振り向いた。
…ああっ…!
足元がおぼつかなくなり、純香は脱力したかのようにその場に座り込んだ。
知らない顔ではない。
両親を殺した人物は、ゆっくりとナイフを掲げたまま、純香に近づいてくる。
恐怖と戦慄が、幼い純香の体を駆け巡り、体中のすべての機能を麻痺させた。
…殺される!
そう思った刹那、
(ただいまぁ)
玄関から声がした。
※
純香は突然ベットから半身を起こすと、暫くはただ呆然と暗闇に染まった、自分の部屋の中空を見つめていた。体中からは不快な汗が噴き出していて、今まで見ていた夢の余韻に恐怖して、体を小刻みに震わせた。
…あの人は…。
夢の中では、両親を殺した人物の顔ははっきり見えていたかに思えたのだが、自分が目覚めた今、やはりその人物の顔は思い出せない。
純香はややあって、ベットの傍らに置いてある目覚まし時計に目をやると、ようやく現実の自分を取り戻せたような気がした。
時刻は午後の九時。どうやら、あんな刑事の訪問のあと、気分が悪くなって自室で横になっていたら、そのまま眠ってしまったらしい。純香は慌てて起き上がると、部屋を飛び出した。
家内は異様なほどしーんとしていた。兄である春人の姿は見当たらない。どこかへ出掛けたのだろうか。
不意に、ガラガラと玄関の開く音がした。
…お兄ちゃん?
そう思って、おもむろに玄関口に向かったが、そこには誰もいない。気のせいだろうか、と思った刹那、物陰から声がした。
「出て行け、ここから出て行け」
変声機を使ったかのような、不明瞭なくぐもった声。思わず純香は戦慄して、声のしたほうを振り向こうとしたが、その瞬間、そこから何者かが急に躍り出て来て、純香の顔面になにかスプレーのようなものを吹き付けてきた。
「きゃぁ!」
純香は小さな悲鳴を上げると、よろめきながらあとずさる。
「出て行け、ここを出て行け」
不気味な声でそう呟く人物は、よろめく純香の背後を素早くとると、純香を羽交い絞めにし、声を上げられないように手のひらで純香の口を押さえてきた。
純香は必死に抵抗しようとするが、先ほどのスプレーが目に沁みて、すぐ目の前の視界さえも翳んでしまう。
刹那、純香の首筋に何か冷たいものが触れた。それがナイフの切っ先であることに気づくには、それほどの時間はかからなかった。
純香は抵抗するのをやめたが、恐怖のため涙がとめどなく溢れてくる。
…誰か助けて!
心でそう叫んでみても、相手のナイフに少し力が入るだけである。
「出て行け、ここを出て行け」
相手は、執拗なまでに純香の耳元で囁く。
…こいつだ、この人が私の父さんと母さんを殺したんだ。
純香は、直感的にそう思った。しかし、今の純香には成す術がない。
相手の鼓動が、純香の体にも伝わってくる。
「出て行け、ここを出て行け」
相手は、純香の首筋に突きつけたナイフに更なる力を込めると、再びその言葉を繰り返した。
純香は訳の解らないまま何度もうなずき、必死で涙を堪えようとした。
がつん、と突然後頭部に衝撃が走った。どうやら相手が、ナイフの柄の方で純香の頭を力強く殴りつけたらしかった。目の前が一瞬回転したかと思うと、純香はその場に倒れた。
…顔を、あいつの顔を…。
遠くなりかける意識の中、純香は相手の顔を確認しようと努力するが、目の前が翳み、それはおぼろげながらにしか確認できなかった。
相手は、暫く倒れた純香を見下ろしていたようであったが、やがてゆっくりと玄関口から出て行った。
…!?
何かがおかしい、純香はそう思った。なにか違和感のようなもの。…それが一体なんなのか、今の純香には解らなかった。
「おい、純香!どうした、しっかりしろ!」
そんな声が聞こえてきて、体が揺さぶられるのに気づいた純香は、ゆっくりとまぶたを開いた。
…ここは?
純香は暫く、悪い夢でも見ていたのだろうか、と鈍い痛みの残る後頭部を押さえながらぼおうとしていたが、そこが玄関口であることに気づいて、さきほどの出来事は現実であったことを悟った。
「純香、おいっ!」
尚も倒れたままの純香を揺さぶりながら、春人が心配そうな表情で純香の顔を覗き込む。
「お、お兄ちゃん…」
純香の両目はいまだに痛みを残していて、視界のほうもおぼつかなかったが、しばらくすると兄の顔もしっかり確認できるほどに回復してきた。
「お兄ちゃん!」
純香は半身を起こし、突然兄の体にしがみつくと、声を上げて泣きじゃくった。
あれからどれだけの時間が経ったのか、純香はわからないでいたのだが、相も変らぬ恐怖が純香の心をいまだに覆っていた。
「なにがあったんだ?」
春人は純香の背中を叩き、宥めるように優しく聞いてくるが、今の純香は歯の根も合わないほどに震えていて、簡単な発声でさえもうまくできない状態であった。
純香が、先ほどの出来事を春人に話せるようになったのは、深夜をとうに過ぎた頃になる…。
※※※
青木祐介と穴井圭造は、人目を憚りながら、そそくさとその場所から逃げ出そうとする。
染谷俊彦もその場を早々と立ち去ろうとしたのだが、もう一度だけ、穴の中を覗いてみた。
一瞬、北野吉行の手がぴくり、と動いたような気がした。まさか、と思い、染谷は目をこする。
(ああ、まだ生きてる)
染谷は、それが気のせいではないことに気づくと慄然とした。
刹那、吉行の目が突然見開かれた。
(ひっぃ!)
思わず染谷は小さな悲鳴を上げ、その場に尻餅をつく。
吉行の手が、中空を掴もうとすかのごとくに高く掲げられ、血ばしったその目が、染谷の視線とぶつかる。それと同時に、吉行の喉元から、多量の血がさらにあふれ出した。
(助けて…)
苦痛で、かすれたような声で吉行はそういった。
(僕じゃない…)
今にも消え入りそうな声だ。
染谷は恐ろしいほどに見開かれた吉行の目を、射すくめられたかのように、ただ見つめながら呆然としていた。
(…ちゃん、が…)
一度だけそういうと、突然脱力したかのように、ばたりとし、それ以降ぴくりとも動かなくなった。
染谷は、それを見届けると尻餅をついたまま後ずさりながら、やがて立ち上がると、急いでその場を逃げ出した。
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