<1>
「誰なんだ?犯人は…」
兄の春人は、暫くの沈黙の後、再び純香に尋ねた。しかし、今度のその声は、先ほどの穏やかさとは違い、少々威圧的なもののように純香は感じていた。
時刻はもうすぐ、午後の九時を廻ろうとしている。純香は何気なく壁時計に目をやって、それからゆっくりと語り始めた。
「昨日の夜、私が襲われたとき、犯人は『正面玄関から入ってきて、正面玄関から出て行った』の。あの時私、何か違和感のようなものを感じた…。そのときはそれがなんだったのか解らなかったけど、今日それに気づいたとき、すべてのことを思い出したわ」
「違和感?どういうことだ」
春人は、不審気に眉根を寄せる。
「解らない?お兄ちゃん。すごく簡単なことよ…。そのことが犯人の名前を指し示してるの」
「なんなんだ?俺にはわからない…」
春人が言うと、純香は暫く間を空けた。悩んでいるのだ。このことを兄に打ち明けるべきなのか、それともこの話はなかったことにして、おとなしく自分は市内のマンションに身を退くべきなのか。しかし、今の純香には、このまま事を終わらせることなど到底できそうになかった。たとえ、純香が春人には何も告げず、マンションのほうに引き返したとしても、きっと毎晩悪い夢にうなされるに違いない。何より、人が殺されているのである。純香もか弱い普通の一般市民だ。自分は犯人を知っている。知っていながらこのまま一生過ごすことなど、到底できない。
…言うしかない。
純香は決意した。たとえそれが、どんな事態を招こうとも、自分はそれを受け止めなければならない。そう思い、純香はゆっくりと言葉を発した。
「五郎のことよ。犯人が正面玄関から出入りしたのなら、犬の五郎が吠えないはずはないの」
そうなのである。あの時、五郎は一鳴きもしていなかった。普段、誰であろうと、どんな状況であろうと、ところ構わず正面玄関から入ろうとするものに吠えかけるはずの五郎が、一声も発しなかったのである。ただし、『例外が一人だけいる』のだ。つまり、五郎がその人間を見ても吠えない人物が…。
あからさまに春人の顔色が変わるのが解った。
「もう解ったでしょう?五郎が吠えない人間は、私の知っている限りでは一人しかいない…」
純香は、ゆっくりと兄の視線を受け止めた。
「…お兄ちゃん…。あの時私を襲ったのは、お兄ちゃんなんでしょう?」
純香は、かみ締めるようにして兄の名前を吐き出すと、暫くは兄の視線を受け止めていたが、やがて目を伏せた。
長い沈黙が訪れた。まるで周りの空気が流れる事を忘れたかのように、このままずっとその沈黙が続くのではないかと純香には思われた。
春人が声を発したのは、それから五分ものあとであったのだが、純香にとってその五分という時間は、あまりにも長い時間に感じられた。
「それで十五年前の事件の事も、思い出したというわけか…」
春人は、冷静を装ってるようではあったが、その目は充血したかのように赤く血走っている。
「それなら、何の言い訳もお前には通じないわけだ。そうだなぁ、たとえば、その時五郎は寝ていたんだとか…」
そういう春人の顔には、わずかな笑みが浮かんでいる。
「…でも駄目だよな。あの犬は神経質だから、たとえ寝ていたとしても人の気配に気づいて、すぐに起きてしまう。それに、たとえそのいい訳がお前に通じて、あの時お前を襲ったのは俺じゃないと信じ込ませる事ができても、お前の頭の中にある十五年前の記憶までは誤魔化せないよな」
春人は、純香の顔を見つめながら、一言一言ゆっくりと言葉を発した。
「染谷さんたちを殺したのも、お兄ちゃんなの?」
純香は、少しばかりの緊張と恐怖のため、そう尋ねる声は少し震えていた。
「今更嘘をついてもしょうがないからな。…ああ、そう。俺が殺したよ」
「どうして!?」
なんとなく解っていた事とはいえ、実際に兄の口から肯定の言葉が出てくると、純香はたまらなくなり、泣きぶようにしていった。
「お前には、関係のない事だ」
「昨夜、私にあんな事をしたのは何故!?」
「それは、簡単な事さ。お前が久しぶりにこの家に帰って来た事によって、お前が忘れていた記憶が甦りそうだったからな。自分でもそう言ってたろう?だから、お前をここから早く追い出したかったのさ。まぁ、でも、かえってそれが裏目に出てしまったみたいだけど」
春人は、平然と言い放してみせる。
「そんな…酷すぎるよ」
あまりのショックに、純香はついに泣き出す。
「おいおい、何も泣く事はないだろう。ただ少し脅かしただけじゃないか」
そういう兄の言葉一言一言が、純香には、冷酷な響きを宿しているように聞こえた。
…お兄ちゃんじゃない。目の前にいるのは、私のお兄ちゃんじゃない!
純香は必死でそう思い込もうとしたが、それは無理な事であった。目の前にいるのは、紛れもなく自分と血のつながった実の兄なのである。
「自首して…。今なら遅くないでしょう?」
震える声で純香はそう訴えたが、その言葉は春人を怒らせたようだった。春人はいきなりテーブルを力強く拳で叩くと、
「冗談じゃない、なにが自首しろだ!」
と怒鳴り、立ち上がった。
「いいか純香、よく聞け!親父とお袋を殺したのは、お前のためでもあったんだぞ!」
…私のため?
何の事か、純香には解らなかった。一体、兄はなにを言っているのであろうか。
刹那、五郎の吠え声が玄関先で聞こえてきた。そして、インターホンの音…。
「すいません、北野さん。昨日お尋ねした新藤です!」
そんな声が聞こえてきて、再びインターホンの音。
…新藤?昨日の刑事さんだ。
純香はとっさに立ち上がる。
「純香、どこに行くんだ!」
春人は、純香の腕を慌てて掴む。
「決まってるでしょう、刑事さんに全部話すのよ」
純香がそういうと、春人はチッと舌打ちをして、テーブルに置かれてあった小型の果物ナイフを取り上げ、それを純香の首筋に当てると、左手で口を封じた。
「きゃぁ…!」
と純香は小さな悲鳴を上げたが、それはすぐに春人の手でふさがれる。
…これは…!
純香は、突然眩暈を覚えた。この状況は、十五年前のあの時と似ている…。
…ああっ。
純香の記憶がフラッシュバックする。
そう、紛れもなく十五年前のときも今回も、仰ぎ見た顔は…兄の春人であった。
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<2>
「ちょっと冴子さん、どこ行くンすか?」
早足で進む新藤冴子のあとを、糸永慎二はしつこくついてきて、何度もそう尋ねてくる。はじめのほうは、まったく無視していた冴子であったが、段々と糸永が鬱陶しくなってきたので、急に立ち止まり糸永のほうを振り返った。
「昨日、職務怠慢を犯したあなたには解らない事よ!」
「職務怠慢って、またまたオーバーなんだから。そんな意地悪なこといわないで、僕にも教えてくださいよ」
糸永は、悪びれることなく、あっけらかんと言うが、その態度が冴子には腹ただしい。
「昨日、北野さんのところで質問をしていたとき、変な突っ掛かりがあったのを思い出したのよ」
「突っ掛かりって、なんなんすか?」
「だから、あなたはあの時、犬が怖くて逃げ出していたでしょう!」
糸永は、わざとらしくギクリと言って、短く刈った髪の毛を撫ぜる。
「ま、まぁ、それはそれとして、僕にも教えてくださいよ」
冴子は呆れたふうに溜め息をつくが、一度肩をすくめると、渋々糸永に話すことにした。
「北野家の隣家の亮二って子が、十五年前の事件の一部を目撃していた、って事は会議でも話したでしょう?昨日、その事を北野さんたちのも話したのよ。勿論、目撃者の名前は伏せてね。…そう、私はあの時こんなふうに言ったの、『十五年前の事件当時、この家から染谷たちが出て行くのを目撃した人がいるんです』てな具合にね。それに対して彼は…北野春人はこんな事を言ったわ。『確かにいつもは閉めている裏口の鍵は開けてましたけど…』てね。…なんだかおかしいとは思わない?」
冴子は糸永に尋ねた。しかし、糸永は不思議そうな表情で首を傾けるだけである。
冴子は溜め息をつくと、あきらめたように再び歩き出しながら、糸永に解答を教える。
「いい。私は、この家から染谷たちが出て行くのを見た、としか言ってないの。一言も『裏口から出て行った』なんて言ってない。なのにどうして、春人は裏口から出て行った事を知っていたのかしら?普通なら、目撃者もいるって言ってるんだから、正面玄関から出て行った思うのが当然のはずだわ。それなのに、彼は何の躊躇いもなく『裏口』という発想に至った。つまり、春人は十五年前、事件現場にいた、ってことにならないかしら。彼は、『染谷たちが裏口から出て行くのを目撃』しているのよ」
冴子が一気にそうまくし立てると、糸永はうーんと唸る。
「確かに、おかしいといえばおかしいっすね。そうすると、どうなるんすか?」
「簡単な事よ。容疑者が一人増えるだけ」
すると糸永は、あからさまに驚いた顔をする。
「ええっ、北野春人が自分の両親を殺した!?そんなことが…。だって、彼は事件の第一発見者ですよ。自分で殺しておいて、自ら警察に電話したっていうんすか?」
「そうよ、何かおかしいかしら。当時、春人は中学三年生。つまり十五歳ね。吉行犯人説よりかよっぽど説得力があるわ。最初からそう考えていればよかったのよ。第一発見者になれば、自らが容疑者からはずれる心理的な盲点となる」
「ち、ちょっと、まだ彼が犯人と決まったわけじゃ…」
「解ってるわよ。だから、今からカマ掛けに行くんじゃない」
「ああ、なるほど」
糸永はようやく納得したようで、一人うんうんとうなずいている。
「もし、本当に春人が犯人なら、なかなかに頭の切れる人間よ。少なくとも、あなたよりはね。…第一発見者になりすまして、自分の容疑を薄くする。そして、あたかも悲しそうに両親の血塗れの死体を抱きかかえて、自分についた返り血を誤魔化す…。中学生にしては中々のものよ」
「返り血?ああ、そうっすよね。あれだけ被害者を滅多刺しにしてるんだから、犯人は返り血を浴びてるはずっすよね。…はあ、なるほど、そうやって返り血を誤魔化す手もありますね」
糸永は、再び感心したようにうなずいた。
冴子と糸永が、北野家の前についた頃には、時刻は既に午後の九時を廻っていた。
いまだどこからともなく、笛や太鼓の音はかすかに聞こえてきていたが、それ以外は閑散としていて、不気味なほど静まり返っていた。
「さあ、糸永君どうするの?あなたの苦手なワンちゃんは、相変わらずの様子で番をしているみたいよ」
冴子は、鉄門越しに見える犬小屋を指差しながら、悪戯な笑みを浮かべる。番犬は、既に冴子たちに気づいているらしく、態勢を低くして、こちらを痛ましいほど睨みつけているようだった。
「な、なに言ってるんすか。今度はへ、平気っスヨ」
口ごもりながらそういう糸永の表情は、暗闇にまぎれてよくは確認できないが、その表情がありありと引きつっているのは安易に想像できた。
「あらあら、そんなに無理しなくていいのに」
そういって、冴子は鉄門に手を掛ける。その途端に番犬はけたたましい吠え声を上げた。
ひっぃ、と糸永は悲鳴を上げたが、冴子は構うことなく玄関の前まで進んでいく。
インターホンを押す。そして、少し糸永の様子を見るために振り返ったが、どうやら鉄門の前でいまだびくびくしているらしい。番犬は、そんな糸永をからかうかのように吠え続けている。
「すいません、北野さん。昨日お尋ねした新藤です!」
冴子は玄関越しに呼びかけた。しかし、応答がない。
…留守かしら?
その時、家の奥で何か物音が聞こえたような気がした。
冴子はもう一度インターホンを押す。
刹那、かすかだったが、悲鳴のようなものが冴子の耳に届いた。はっとして、冴子は再び糸永のほうへ振り返る。
「糸永君、今悲鳴が聞こえなかった?」
「はぁ、この犬がうるさくって、ぜんぜん聞こえません」
どうやら、糸永はまったく使えないらしい。今頃気づいたわけではなかったが、冴子は大きく溜め息をついた。
「北野さん、いらっしゃるんですか?」
冴子は気を取り直して、もう一度インターホンを押す。
やはり返答はない。
仕方なく、今度は玄関に手を掛けてみる。
…開いてる。
鍵は掛かっていなかった。
「すいません、誰かいませんか?」
玄関を開け、部屋の奥を覗いてみる。明るい。どうやら電気はついているようだ。
冴子は耳を澄ます。
ガタッ。
一瞬だったが、物音がした。
…やっぱり、誰かいる。
「糸永君、行くわよ」
三度糸永のほうを振り返り、冴子は言った。
「行くって…、家の中に入るんすか?それって、不法侵入じゃ…。だって、誰もいないんでしょ?」
「それじゃあ、そこにいればいいわ」
「わ、解りましたよ、今そっちに行きますから」
糸永は今にも泣き出しそうな顔で、暫くは吠える犬の様子を見ていたが、意を決したように目を瞑ると、冴子のそばまで全速力で駆け寄ってきた。
糸永が玄関口に入ると、冴子は扉を静かに閉めた。それと同時に、犬の鳴き声もやむ。
「は、はははっ…、見ました冴子さん?あんな犬なんか、僕へっちゃらっすよ!」
「静かにして」
冴子は、自分の口に人差し指を当てると、糸永を黙らせた。
「誰かいるんすか…?」
糸永が小声で尋ねてくる。
ギシィ。
かすかに床のきしむ音。
…やっぱり誰かがいる。息を潜めて…。
冴子は少し緊張しながら、髪をかきあげた。
糸永のほうも、どうやらその気配に気づいたらしく、少し表情がこわばる。
「誰もいないんですか!?お邪魔しますよ」
冴子は、今一度部屋の奥に声を掛けると、靴を脱ぎ、玄関を上がった。糸永もそれに続く。
どうやら、電気がついている部屋は一部屋らしく、冴子たちは足音を忍ばせながらその部屋へ向かう。
「僕が先に部屋を覗いて見ますよ」
糸永が小声で冴子に伝えると、糸永は冴子の前方に踏み出た。
「気をつけなさいよ」
冴子は言うと、いったん糸永の背後まで退く。糸永はその言葉にうなずくと、ゆっくり部屋を覗いた。
「あれっ、冴子さん。やっぱり誰もいません…」
部屋を覗き、冴子のほうを振り返った糸永が言う。
そのときである、壁の陰から人影が突然現れ、糸永の背後に立った。恐らく、冴子たちの立つ場所からは、死角になるところに身を潜めていたのだろう。
「糸永君、うしろ!」
冴子の声にはっとして、糸永が人影のほうに振り返ったその刹那、人影は糸永の体に体当たりをしてきた。しかし、糸永の身体はふきとばず、その場で男の体を受け止めている。
…体当たりじゃない?
冴子がそう思った瞬間、糸永の両膝がガクリと折れた。
「あ、あ、あれ?」
床に少しずつ広がっていく血液。糸永は、床に突っ伏したまま、それを不思議そうに見ている。
「さ、冴子さん、血が、僕のお腹から血が出てますよ…。痛い…、痛いです…。…救急車を…」
傷口を押さえながら、糸永は震える声でそういうと、その場に完全に倒れ伏した。
「糸永君!!」
冴子はとっさに腰から拳銃を抜き出すと、人影に向かって銃口を向けた。
「チッ、一人じゃなかったのか」
男は血に塗れたナイフを握りなおし、冴子のほうへ向き直る。
「あなたは、北野春人…。やっぱりあなただったのね」
冴子は銃口を向けたまま、呟くように言う。
「ああ、ついてないなぁ、刑事さんまで来るんだもん。タイミング悪すぎ」
北野春人は、薄笑いを浮かべながらナイフを弄ぶ。
「お兄ちゃん…?」
不意に、春人のうしろにもう一人現れた。春人の妹の純香だ。純香は倒れた糸永の姿を認めると、小さな悲鳴を上げた。
「まさか、お兄ちゃん…!早く救急車呼ばないと!」
「動くな!」
電話のほうへ向かおうとする純香の髪を引っ張り、春人は自分のもとへ寄せ、妹の首筋にナイフを突きつけた。
「きゃぁ!」
悲鳴が上がると、冴子は引き金にあてた指に力をこめた。
「おっと、女刑事さん。そのまま引き金を引くと、俺の可愛い妹に当たるかもしれないぜ。それとも、射撃には自信があるのかな?」
「そのこを放しなさい。あなたの妹でしょう?本気で殺すつもり?もしそうならば、無意味な事よ。あなたの罪が増えるだけ」
「なんだい、なんだか俺の事をよく知ってるふうな言い方だな。昨日一度会っただけなのに」
「あら、あなたはその一度で、私にぼろを出しちゃったのよ。…あの時、誰も裏口から染谷たちが出ていった、なんて言ってないのに、あなたはあたかも知っていたような発言をしたわ」
冴子も、冷静に相手の様子を窺う。
「あれ、そうだったかな?よく憶えていない」
春人はあっけらかんと言うと、いったんナイフを、純香の首筋から離した。そして、一度大きく息を吐く。
「はっぁー。大体さぁ、あんたら刑事は、生きてもいないはずの吉行が犯人だって睨んでたんじゃないの?昨日、そんなこと言ってたじゃん。俺、あの時、あんたらの勝手な思い違いで、自分の身(たちば)がますますよくなった、って心中思ってたのに」
「どうやら、自分の弟が既に生存してない事を知ってるようね。やっぱりあなたは十五年前、あの事件現場にいたのね」
「今更違う、なんていっても、もう刑事さんを一人刺しちゃったしな。…そうだよ。その場にいたって言うか、俺が殺したんだ」
春人は、半ば開き直ってる様子でそういった。しかしその目は依然、狂気が宿ったかのように血走っている。
「どうして、自分の両親を?」
冴子は言いながら、純香の様子を盗み見る。肩を小刻みに震わせて涙を流しているが、それが恐怖のためか、絶望のためかは、今の冴子の知る由ではない。
「そんなこと、刑事さんには関係ない。黙秘権ってやつだ」
「両親の不仲のせい、じゃないの?」
冴子がそういうと、春人が一瞬、体を硬直させた。
「うるさい、黙れ!」
春人は、少し激高してそう叫ぶ。
「染谷たち三人を殺したのも、あなたね?」
「あいつらは、復讐だよ。弟の仇だ!」
「あら、復讐だなんて、そんな格好のいいものかしら」
冴子は、わざと揶揄してそういった。
「なんだと!?」
「あなたは、十五年前の事で染谷に脅迫された。それで染谷を殺した。それで怯えを知ったあなたは、十五年前の事件を知ってるほかの二人、青木と穴井も殺害した。…動機はそんなもんじゃないの?」
春人の顔色が変わる。
「は、ははっ、あんた、中々頭がいいみたいだな。そこらにいる馬鹿な警察とは違うみたいだ。でもよ、すぐにその口をふさいでやる!…あんたに何が解るって言うんだ」
春人はそういうと、再び純香の首筋にナイフの切っ先を当てた。純香は小さな悲鳴を上げる。
「刑事さん、早くその拳銃をしまえよ。こいつを殺すぞ!」
「あなたが、妹さんを解放するなら考えてもいいわ。私もできれば、こんな物騒なもの使いたくないの。ハリウッド映画みたいに、簡単に銃は撃てないのよ。あとで始末書やら報告書とかでめんどくさくなっちゃうのよ。…大体、これからどうするつもりなの?妹さんを殺して、私も殺して逃げるつもり?日本の警察は、あなたが思ってるほど無能じゃないわ。だから、どこに逃げても無駄よ。あなたにはもう、逃げ場が無いの…」
その時、春人の後方のドア(恐らく、あれが裏口だろう)が、わずかに開いた。そこから誰かが静かに入ってくる。どうやら春人は、それには気づかないらしく、血走った目で冴子を睨み続けている。
…あれは?
裏口から入ってきたその人物は、右手になにやら太い棒のようなものを持っていた。冴子はその人物が誰か解ったとき、不意に拳銃を床に置いた。
春人は、そんな冴子の行動に、一瞬不意を突かれたような表情をしたが、やがてにやりと笑う。
「はん、やっと観念したのか?」
そういう春人を見て、冴子もにやりと笑う。
「そうね。…でも、あなたの負けみたいよ」
「なんだと!?」
春人が訝しげな顔をしたその直後、裏口から入ってきた人物が春人の後頭部を、持っていた棒で思いっきり殴りつけた。
鈍い音が響いた。ぐっわ、と春人が悲鳴を上げながら、前のめりに倒れる。純香も、突然の事に悲鳴を上げる。
冴子はその瞬間を見逃さなかった。素早く春人のそばへ駆け寄り、腕を後ろ背に締め上げると、すかさず手錠を掛けた。
春人は、暫く痛みに耐えながらもそれに抵抗していたが、やがて観念したように肩を落とし、ぐったりとうな垂れる。
冴子は大きく溜め息をつくと、侵入者の顔を見て、
「よくこんな事になってるって解ったわね」
と、首を傾げた。
「あれだけ騒いでりゃ、普通気づくだろう。俺の家は、すぐ隣なんだぜ」
侵入者…吉良亮二は、持っていた棒を冴子に手渡しながらいう。その棒のようなものは、木刀などではなく、錆びて古くなった金属バットであった。
「こんなもので、本気で殴ったの?」
「ああ」
亮二は、悪びれることなくうなずく。
「…痛そうね」
冴子は肩をすくめると、床に倒れている糸永の様子を見た。
「糸永君、生きてるの?」
冴子は言いながら、糸永の頬を叩く。最初は何の反応もなかったが、ややあって糸永の腫れぼったい目がゆっくり開いた。
「ああ、母ちゃん。どうして味噌汁の中に、パイナップル入れるのさ…」
糸永は訳の解らぬ事を呟くと、再び目を閉じた。しかし、小さな寝息をたてている。どうやら腹部の刺し傷は、思ったよりも浅いようだ。今だ出血はしているものの、ごく少量だ。
「救急車と警察を呼んで」
純香は自失呆然としていて、何を言っても無駄な様子だったので、冴子は亮二にそう頼んだ。
亮二がうなずき、電話のほうへ向かった頃、冴子は今一度手錠を掛けられ、うずくまっている春人を見下ろした。
北野春人は、声を上げて泣いていた…。
学校の帰り道。北野春人は憂鬱だった。
春人は、中学三年生である。もうすぐで高校受験だ。だから学校へ行けば、必ずといっていいほど進学の話が出るのである。春人は、それがたまらなく嫌だった。
…自分の進路が、まだ決まっていないから。
確かにそれもあった。自分は何がしたいのか、どこ高校へ行きたいのか、それとも働きたいのか…。まったくといっていいほど、自分自身の進路が定まっていなかった。それに対する自己嫌悪。
しかし、それだけではない。教師や親の言葉。勿論、彼らは否応なしに高校へ行く事を勧めた。春人が何故か、と問うと、それは決まって春人の胸を悪くするような返答ばかりであった。
『いまどき、高校も出てないでどうするのよ。常識でしょう』
『高校ぐらい出てないと、まともな職に就けないぞ』
『みんな高校へ行くのよ』
まったくもって、春人の意志を尊重するような返答ではなかった。
確かに、春人自身、意志などというものは持っていなかったが、もう少し別な言い方があってもいいものだと思う。何故か大人たちは、常識や世間体で自分の考えを子供に押し付ける。皆が高校に行くからあなたも行きなさい、などという言葉は、はっきりいって春人には理解できなかった。そんな事を言うのならば、皆が死ねば子供にも死ねというのだろうか。そういうふうに反論すると、親や教師に『屁理屈だ』、と言われて簡単に受け流されてしまう。無論、親や教師は、春人の将来の事を考えて言ってくれてるのであろうが、自分の将来が明確ではない春人には、ただただ虫酸が走るような言葉でしかなかった。
だから春人は、あまり大人たちの言葉には耳を貸さなかった。別にひねくれていたわけではないし、世間で言う『不良』でもなかった。ただ、うわべだけは良く聞いてるような振りをして、実際は上の空だったのである。今の春人にとって、大人という生き物は、今だ理解できない生き物であった。
それでも春人は、最近になってようやく高校へ行こうと決心した。親のためではない、教師のためでもない。自分のためだ。自分のやるべき事がわからないから、高校へいってそれを探そう。春人はそう思う事にしたのだ。勿論、高校へ行ってそれが見つかる保証などなかったが、それでも今はいいと思っている。見つからなければ、自分はただ無気力に生きるだけだ。無気力であれば、やがて生きる意味を失ってしまうだろう。そうなると人間はどうなるのだろうか…。
…自殺。
春人は一瞬、自分の将来が垣間見えたような気がして、首を振った。
そんな事を考えながら歩いていると、やがて自分の家の前までついた。夏祭りのため、周りの家の人間たちは、ほとんど広場のほうへ行っている。そのためだろうか、やけにしんとしていて、鉄門を開けるときの軋み音が酷く大きく聞こえた。
玄関を開け、家の中にはいる。そのとたんに、両親の罵声が春人の耳に届いてきた。
…またか…。
夫婦喧嘩はいつもの事だ。何の理由でそんな大声を上げ、物を投げつけあったりするのか、春人にはまったく解らなかった。否、解りたくもない。人前では必要以上にニコニコしている両親も、一度二人きりになるといがみ合いの表情になり、一言も口を利かなくなる。否、二人だけのときに喧嘩をするなら、別に春人もこれほど頭を抱える事はなかったであろう。しかし、春人の両親は、子供の前でも平気で大喧嘩をしていた。妹の純香と弟の吉行はそんな親の姿を見て泣き喚き、最後には決まって母親が泣き出す。そしてあとに残るのは、割れた皿やコップ、戻ることのない夫婦の溝だけである。子供たちは心を傷つけられ、それを慰めるのは、いつも春人だった。
それほどまでに仲が悪く、顔を見るのも嫌ならば、いっそうのこと別れてしまえばいいのに、と春人は思うのだが、それも親権やら慰謝料などという、今の春人にはよく解らない問題が出てくる。
…でも、結局は世間体だ。
春人はそう思う。両親は、何よりも世間体を気にする人間だった。だが、春人にとって、世間体などというものは、くだらぬ迷いごとのようにしか思えなかったのである。
…そんなことのために、俺たちを平気で傷つけて!
気づくと、春人はダイニングルームのほうへ駆け上がっていた。
(いい加減にしないか!)
父親が、母親に向かって皿を投げつけていた。
皿の割れる音が、家内に響く。
(あなたこそ、よく人のことが言えるわね!)
母親は泣き叫びながら、父親に向かって両手を振り回している。
…どうして、どうしていつもこうなんだ…。
学校で募る憂鬱のせいか、それともあまりにも無神経な両親のせいか、急に春人の頭の中は真っ白になり、涙がとめどなく流れてきた。
(やめろよ!)
春人は、キッチンに置いてあったナイフを取り、両親の間に割って入った。それからあとの事は、よく憶えてはいない。とりあえず、二人を黙らせようとして、両親に向かってナイフを振り上げた。
まず父親…。抵抗されると、春人の力ではかなわないので、不意をついて胸の辺りにナイフを突き刺した。すると父親は、あっけないほどに驚愕の表情を残したまま倒れた。
次に母親…。悲鳴を上げられたりすると、うるさくてしょうがない。間を置かず、すぐに母親の胸も刺す。やはり母親のほうも、あっけなく倒れる。
しかし、もし起き上がってきたら…。そんな不安が春人の心を覆った。
…確実に起き上がれなくしないと!
倒れた両親の体にまたがり、何度も何度もナイフを突き立てた。床に広がる鮮血。自分の体にも血飛沫が飛んでくる。
気がつくと、春人の周りには血の海ができていた。眼下には血に染まった肉の塊…。それは、春人の両親の体であった。
…ああ…。
両親の血液と脂でぬるぬるする自分の手で、春人は一度顔をぬぐうと、ようやく正気を取り戻した。
…死んだ…、俺が殺した。
そう思った途端、再び涙が溢れてきた。しかし、その涙がなんのために出てくるのか、春人自身よく解らなかった。別に悲しいわけではなかったし、後悔もなかった。かといって、ある種の達成感による喜びでもなかった。ただすべてが虚しい…、そんな感じであった。
不意に視線を感じた。春人は後ろを振り返る。
そこには、幼い妹の純香が、がたがたと震えて座り込んでいた。
…妹は、これからどうなるんだろう。
自分で両親を殺しておきながら、そんな無責任な考えが頭に浮かぶ。
…殺してやるか…。
そう思った。自分は警察に捕まる。そうすれば、妹も行き場をなくしてしまうのだ。それならいっそうの事、死なせてやったほうが妹のためだ。
春人は妹に近づいていった。純香はそんな春人を、恐怖の目で捉え、身動きせずにただじっと座っているだけであった。
しかし…、妹を殺す事は、春人にはできなかった。何故かは解らない。ただ、妹の体が小さかった。妹はまだ何もしらなすぎる。そして、妹が何より可愛かった。無抵抗な幼い純香を殺す事など、春人には到底できなかったのである。今、家にはいないが、弟の吉行にしても同じだ。何より可愛い。きっと両親に殺意を抱いたのも、妹と弟のためだったのだ。二人の心を平気で傷つける両親が許せなかったのだ。
…そうだ、高校など行かず働けばいいんだ。そうして金をもらって、俺が二人を養うんだ。
そんな考えが春人の頭に浮かぶと、急に生き甲斐ができたような気がして、無気力だった自分の意志に光が差したような気がした。
…そのためには。
この場を何とかして誤魔化すしかない。警察に捕まるわけにはいかないのだ。幸いにも、近所の者たちは夏祭りのため、近隣にはいないはずである。恐らくこの異変に気づいてるものなどいないだろう。自分が警察に電話して、現場の第一発見者の振りをすれば…。まさか、息子が自分の両親を殺したなど、中々思われないであろう。体に浴びた返り血は、両親の体を抱きかかえて、さも悲しそうに振舞っていれば誤魔化せるだろう。
その時、不意に玄関の開く音がした。
…誰か来た!?
春人は咄嗟に妹の口を右手で封じると、壁の陰に身を潜めた。
(ただいまぁ)
そんな声が家内に響く。どうやら弟の吉行が帰ってきたようである。春人は少し安堵して、肩の力を抜いた。
吉行がダイニングルームのほうへ来ると、弟はその光景にずいぶんと衝撃を受けたらしく、暫く呆然としていた。無理もないだろう。彼はまだ幼い幼稚園児にすぎないのだ。大の大人でも、こんな場面に遭遇したのなら、気が動転して自失呆然とするだろう。
春人は、大声で弟に泣かれるとまずいな、と思い、泣き震えている妹の純香をいったん解放し、吉行の前に姿を現した。
弟は、血に塗れたそんな兄の姿を見て、一瞬体をぴくりと震わせ、声を発した。しかし、それは悲鳴であった。
(ひゃっあ!)
刹那、再び玄関の開く音。
…くそうっ!
春人は慌てて身を隠すが、ナイフを取り落としてしまう。
弟は、その落ちたナイフを拾い上げる。
どたどた、と廊下を駆け寄ってくる音。一人ではない。複数の足音だ。
…あれは?
春人は、壁の陰に隠れながら、家に上がってきたものたちを確認した。
…染谷俊彦、青木祐介、穴井圭造…。
春人は一瞬絶望した。ここら近辺では有名な悪がき三人組だ。今すぐにでも大声を上げながら外へ飛び出して、この現状を廻りに言いふらすのであろう。
しかし、春人の予想は大いにはずれる事となる。悪がき三人組はナイフを握っていた弟の吉行を犯人だと思い込んで、混乱している吉行に詰め寄っている。
吉行と悪がき三人組は、なにやら激しい議論を撒き散らしたあと、裏口のほうから森の方へと駆けていった。
春人は一瞬逡巡したが、妹の純香に一応口止めしておいてから、自分も四人のあとを追って出て行った。
暫くは、四人に気づかれないようにゆっくりとあとをつけていたのだが、悪がき三人は執拗に吉行を追い詰めていたようなので、春人もだんだんと腹が立ってきた。
…弟は関係ない!
何度もそういって、木陰から飛び出そうとしたが、そうすれば自分の人生は無茶苦茶になってしまう。
春人は周りを見渡した。こんなところに人がいるわけもない。
…悪がきどもも殺すか。たかが小学生三人ではないか。足元に転がってる石で、頭でも殴れば簡単に殺す事ができるだろう。
そう考えてた刹那、異変が起きた。吉行が視界から消えたのである。否、消えたのではない、どこかの穴に落ち込んだのだ。悪がき三人の顔色が、あからさまに変わるのが春人のところからも、よく確認できた。
…何が起きたんだ!?
すぐにでも飛び出していきたい気持ちを必死で抑え、春人はじっと息を殺し様子を窺っていた。
やがて、穴井が、青木が、染谷が、それぞれに怯えた様子で、そこから逃げ出していった。
三人が完全に姿を消すのを待って、春人は木陰から飛び出した。
(吉行!)
名前を叫び、そこに駆け寄る。
そこにはポッカリと穴が開いていた。
その穴の底でうずくまる、血塗れの弟の姿。
吉行は、死んでいた…。
…なんで、なんでこんなことに!
涙が出てきた。
…俺が悪いのか?
そう、自分がすぐにでも飛び出していれば…。
…警察に…。
春人は首を横に振った。この事を警察に報せれば、自分の立場が不利になってしまう。
…俺にはまだ、妹がいるんだ。
春人は、その場で両膝をついた。
…あの悪ガキどもめ、いつか懲らしめてやる!
そう誓うと、春人は立ち上がった。自分はこれから冷静に警察に対応しなければならない。自分が疑われないためにも、この事は胸にしまっておくべきだろう。もし、あの三人が何か言ってきたならば、知らなかったとでも言えばいい。家に帰り着いたら、両親は既に死んでいたんだ…と。
…弟は、あいつらに殺されたんだ!
『翼を…僕の翼を返しておくれ』
三人に追い詰められながらも、弟の言っていたその言葉が、酷く脳裏に焼きついていた。
春人は、そして自宅のほうへゆっくりと引き返していった。
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