木漏れ日の下

九宝 七音


<一>

 ずいぶん昔の事のようにも思えるし、つい最近の出来事にも思える…。
 湿気の多い狭い洞窟を何の明かりも持たず歩くように、あの頃の私には、何の未来も見えず、ただがむしゃらに暗闇の中を手探りで歩いていくような、そんな時代であった。今にして思えば酷く陰鬱で、滑稽で恥ずかしく、それでいて何かを必死で探し続けていた自分…。思い出してみても、ただただ苦笑いが浮かんでくるだけである。

 確かにあの頃の私は若く、まだ世間のなんたるかも知らない青二才であった…。
 ふと、当時の同世代の若者たちと私とは、ずいぶん違うものであったと感じる事があった。それが良い事だったのか、それとも悪い事であったのか、今の私にしてみればどちらでもいいことだと思えるのであるが、当時の私は、その事に酷いコンプレックスを抱いていたことは間違いない。もしそうでなければ、私はあの『如月荘』(きさらぎそう)というぼろアパートに住み着く事もなかったし、あのような悲しい事件に巻き込まれる事もなかったであろう…。

 人と人とが出会い、そして別れる。それは時折『運命』という名のレールの上に置かれることがあるが、あの事件はまさにそうした運命の導きによって行われたものであろうと思う。運命など存在しない、運命とは自分で切り開くものだ、と豪語する人間も確かに多数存在するであろう。それはそれで私は否定もしないし肯定もしない。ただ、運命を感じる事が一生のうちで、必ず一度はあるものだ、という事を私はあの事件を通して知り、そしてさらなる自分の運命に対しての無力さを思い知らされた出来事でもあった。

 果たして今、このように筆を執り、読者諸君に私の『運命の物語』を公開するにあたって、正直な話、私はまだ多少の不安を抱いている。

 今から綴る物語は決してフィクションではなく、私が身をもって体験した物語なのだ。その物語の中には青春があり、笑いがあり、そして悲しみがある。
 読者諸君はそれを読み、恐らく腹を抱えて笑ったり、ハンカチで目頭を押さえる事になるであろう。しかし私は、それに対して何の脚色もしていなければ、空想の産物も織り交ぜていない。ただ、冷徹な第三者としてこれからの物語を綴っていくつもりである。
 だから私は、この物語を書くうえで幾つもの感情を封印しなければならないであろう。そうしなければ、到底この物語を事実上のものとして完成させる事はできないと思っているからだ。そうする事によって、あの悲しみをこの物語の中に永遠に封じ込めようと思っている。それであるから、当時の出来事を思い浮かべるにあたって、自分で体験した事に関わらず、私は笑いもしない、泣きもしない。ただ無心でこの文体を刻んでいくだけだ…。

 さて、読者諸君にとってどうでもいいような弁論じみた解釈はここまでにして、いよいよ物語の扉を開こうと思う。それは同時に、私の心の扉を開く事でもある。しかし私は決して…否、せめて、この物語を書き終わるまで、感情の扉は閉じておこうと思う…。

(※途中で一部、友人の話のみで構成した部分があるのだが、そこは多少の空想を加えている事をどうかご了承していただきたい。その場面はどうしてもこの物語を綴るうえで、欠くことのできない場面だからである。微力ながら、その友人の話を忠実に再現したつもりではある)



<二>

…大分県 大分市 
        六月…

 二十三歳を目前に控えていた私は、四年間勤めていた印刷会社を突然に辞めた。もともと社会に出るつもりのなかった私にとって、会社勤めはずいぶんと憂鬱なものであった。しかしながら、幸運な事に私の勤めていた会社は若い人間が多く、新入社員の頃からずいぶんと可愛がられてやってきた。気の合う仲間も多く、よく居酒屋に大勢で飲みに行ったり、会社の昼休みには野球をして遊んだりなどしていたから、それほど居心地の悪いところではなかったように思う。だから、全くもって社交的でない私が、その会社を四年間も勤め続けられたのであろう。

 しかしそれでも、憂鬱さが掻き消える事は一時もなかった。その理由は恐らく、誰もがその歳には持ちうるような些細なものである。毎日が同じことの繰り返しで、果たして自分はこのままで歳をとり、死んでしまうのであろうか?この仕事が、本当に自分のやりたかった事なのか?…など、くだらないなりにも当時の私にとっては、自分の人生を左右する大きなことに思えてならなかった。勿論、それだけではない。ただ単に面倒くさい、給料が満足しない、などの、それこそ自分に対する甘えから来るわがままも確かにあった。

 毎日がつまらなく、くだらない事のように思えていた。
 私はもともと根暗な人間である。そうであるから、友人も少なく、自らその輪を広げようとも思わなかった。久しぶりの友人たちと集まっても、出てくる話題は女やセックスの話、はたまた好みの女優や何時からあるドラマが面白いなど、あそこのパチンコ店がどうだこうだ、麻雀の話がどうだこうだ…。そういう者たちから、私は徐々に離れていった。

 気づくと私は独りぽっちになっていた。
 何をするにも無気力で、自信が持てず、誰かを信ずる事をしなかった。恐らく私は、一歩間違えば大きな犯罪を犯していたかもしれないし、自殺を図っていたかもしれない。自分が嫌いであったし、自信の欠片もなかった。

 だから会社を辞めた。暫くは一人になって、何も考えずに暮らしたかった。ただそれだけだ…。 私は親元で暮らしていたのだが、会社を辞めるとすぐに家を出ようと決心し、アパートを探し始めた。私の両親は根っからの良識家だったので、無職でぶらぶらとしている息子を家に置いておく気は勿論ないらしく、私が家を出て行くと言った時点で、じゃあ、親子の縁を切る、といわれた。別にそれで構わなかった。
 私は完全に追い出される前に、と急いで不動産屋へ駆け込んだ。



「家賃三万円ねぇ…」
 駆け込み一番私が尋ねると、不動産屋の主人は鹿爪らしい顔つきをして、額から禿げ上がった髪の毛を軽く掻いた。歳は五十代半ばぐらいであろうか。
「ええ、別にどんなところでもいいんですよ。まぁ、あまり悪い噂がないところだったら」
 私が力なくそう言うと、主人はふぅむぅ、と唸って自分の手元にある台帳をめくった。
「ここなんかどうだねぇ?個人で経営してるところなんだけど…。『如月荘』っていうアパートなんだけどね」
 私は指差されたページを覗き込む。
「しかし、ここの管理人がずいぶんと変わり者というか、偏屈者でねぇ。一癖も二癖もある人間なんだよ。以前、私も話した事があるんだけどねぇ、あれはついていけないなぁ」
 やけにスロウな口調で話す主人である。
「はぁ、そうなんですか」
「う〜ん、他に家賃が三万円ってところはねぇ…。いまどき、山奥の方に行かないとそんな安いところはないよ」
 山奥の方に行かなくてもあるなら、その『如月荘』で構わない。
「あの、一応そこに行ってみます。場所を教えてもらえますか?」
 私は台帳のそのページを指差し、言った。しかし、主人は相変わらずの渋面で頭を掻いている。
「本当にいいのかい?六、七万円出せば、もうちょっといいところに住めるよぉ。お兄ちゃん、女の子好きだろう?ここなんかいいよぉ、女子大学の寮が隣にあってねぇ…」
「あ、否、そんなのはいいんです。とりあえず如月荘に行ってみますから」
「ふぅん。まぁ、あんたさんがそう言うのならいいんだけどねぇ。でも、ここの管理人は本当に変わってるよぉ。他人をからかうのが趣味だって言う、人をくった人間だよ」
「はぁ、そうなんですか…」



 冴えない会話のあとで、不動産屋の主人はようやく『如月荘』の住所を教えてくれた。その場所は、地元からそれほど離れていない場所だったので、私は電車に乗って移動する事にした。

 目的の駅で降りると、私はそそくさと歩きだす。
 暫くは閑散とした住宅街が続き、迷路のような入り組んだ路地に、私は苦戦していたが、なんとか『如月荘』を発見する事ができた。
 そこは、先ほどまで通ってきた住宅街からはだいぶん離れた場所に建ってあった。一見すると木造の古めかしいアパートに見える。瓦敷きの屋根の上には大きな文字で『如月荘』と殴り書きされたような看板が、畏怖堂々と設置されてあった。
 暫く私は遠めにそのアパートを見ていたのだが、このままここでじっとしていても埒が明かないと思い、『如月荘』なる貧相な建物の敷地内に入ったのである。

…おや?

 まず私の耳に聞こえてきたのは、どこかの部屋からアコースティックギターの音が漏れる音であった。誰かが音楽でも聴いているのだろうかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。同じフレーズを繰り返したり、途中で音が止まったりしている。物悲しいアルペジオ調の曲のようだ。
 私は、音の漏れる部屋のほうへ導かれるように歩いていった。
 この『如月荘』は、1階に三部屋、二階に三部屋が横一列に並んでいるようである。音が聞こえてくる部屋は、一階の向かって一番左側の部屋だ。私はその部屋の前で立ち止まる。

『管理人 影戸輝(かげとひかり)』

 扉の横につけられた、蒲鉾板のような表札には丁寧な墨字でそう書かれてあった。『影戸』とは珍しい苗字だな、と思った。
 尻込みながらも、表札の下にあった、これまた貧相なインターホンを押すと、ギターの音が止み、人の気配が玄関越しに近づいてくるのが解った。
「はぁい?」
 少々くぐもったような声のあとで玄関が開かれて、中から部屋の住人が顔を覗かせた。
 私と同い年ぐらいの青年だった。しかしながら、その容貌は私とは天と地ほどに差がある。切れ長の綺麗な二重まぶたに、一本筋がはっきり通った鼻。バランスのとれた唇は色白の肌には桜の莟のように見える。そして、縁無しの小さめの眼鏡の奥の瞳は、少しブルー掛かって見えた。まるでギリシャ彫刻にあるような、絵に描いたような美青年だ。恐らく、混血(ハーフ)だろう。
 暫く私が、その綺麗な顔に見惚れたまま、声を出せずにいると、
「うん?新手の宗教かい?人の顔をじっと見て…。近いうちにあなたにはとんでもない不幸が訪れるでしょう、とか言うんだろう?」
 などといわれてしまった。
「あ、え、い、否…」
 私は態勢を立て直すべく、彼から一歩あとずさると、手を振った。
「え、えっと、部屋を見せてもらおうかと思って…。お父さんかお母さん、おられます?」
 私がそう問うと、美青年はあからさまに不審気な表情を顔に出した。
「オトウサン?オカアサン?…君は何を言ってるんだ。そんな人ここにはいないぞ。それとも、君の両親がここに住んでるとでも言うのかい?それならあいにく、このアパートは僕しか住んでないよ」
「へっ?」
「へっ?て、疑ってるのかい?…ははん、もしかして君の両親は誘拐でもされたのかい。それで、僕を犯人だと疑ってるんだ。悪いけど、それは全くの見当はずれだ。僕には心当たりがないね」
「あの、そうじゃなくて…」
 話が妙な方向に進んでいるような気がしたので、私が弁解しようとすると、彼は私の言葉を構わずさえぎる。
「警察には言ってるのかい?身代金の要求は?何か誘拐されるような心当たりは?…あーっ、そうか!ここが身代金の受け渡し場所なんだな。全く、勝手に人の敷地を指定するなんて、とんでもない輩だ」
 彼はそう言いながら、ついには玄関から完全に出てきて、腕を組み、私の前に立ちふさがった。
 ずいぶんと背が高い。百八十五センチ近くはあるだろう。全体的に細身の華奢な体付きで、足が長く、まるでファッション雑誌のモデルのようだ。
「君、心配する事はないぞ。僕がその不届きな奴らをふん捕まえてやる!」
「え、いやぁ、だから違うんです」
 しどろもどろになりながらも、私はようやくそういうことができた。
「違う?何が?」
 彼は鼻先にずり下がった眼鏡を人差し指で上げてから、理知的な顔を私に近づけた。同性とはいえ、彼のその容貌にはドキリとする。
「へ、部屋を見せてもらいたいんですよ。だから管理人の影戸輝さんをお願いしたいんです」
 私が言うと彼はなんだぁ、と溜め息をつく。
「入居希望者か。それならそうと、早く言ってくれればいいのに」
 そう言われても、自分が勝手に話を進めていったのではないか。そう言おうとしたが、彼のほうが先に口を開いた。
「君は、この表札が目に入らなかったのかい?僕がここの管理人だよ」
 彼は蒲鉾板の表札を指差す。
「えっ、そうなんですか!?」
 意外な彼の返答に、私はずいぶん驚いた。不動産屋の話し振りでは、ずいぶんと頑固者のオヤジ、というイメージを受けていたのだが、まさかこんなに若い管理人だとは思いもしなかった。そのせいだろうか、妙な違和感を覚えてしまう。
「部屋が見たいならちょっと待ってて、鍵持ってくるよ。見るだけなら、僕の隣の部屋でいいだろう?どこの部屋も造りは同じだからさ」
 管理人はつまらなさそうに言うと、すぐ自分の部屋の奥へと姿を消した。
 確かに変人だ。否、まだ会って数分しか経っていない。変人のような気がする、と言い換えておいた方がいいだろう。彼の容貌と、言動とのギャップが私にそう思わせたのである。

 ややあって、管理人が部屋から出てくると、鍵を持って隣の部屋を開けてくれた。
 部屋の中はアパートの外見とは違い、中々小奇麗であった。四畳半二部屋にキッチンの2LKのようなものである。
「ボイラーやエアコンは付いてないよ」
 管理人は言う。
「ええ、それは別に構わないです。あれば便利なだけで、なければないでも、生活していくうえで何の支障もないですからね」
 私はそう答えた。そしてここに住もうと決心する。
 管理人に断って、一応、一通り部屋の中を見て回ったが別段気になるところはない。
「管理人さん、僕、ここに住んでもいいですか?できれば二階のほうがいいんですけど」
「あ、そう。僕は勿論構わないよ。ただし、家賃は毎月三万円だ」
 私は管理人の言葉にうなずく。
「じゃ、好きなときに来ればいい。荷物なんかも運んでこなきゃならないだろう?鍵はそのときに渡すよ」
 管理人は、相変わらずつまらなさそうにそう言うと、さっさと自室へ引き返そうとする。
「ち、ちょっと、書類とか書かなくていいんですか?」
 私が尋ねると、管理人はしかめっ面で私のほうを振り返り、首を横に振る。
「そんな面倒くさいものいらないよ。月初めの第一水曜日に、三万円を僕に渡してくれればいい」
「あ、ええ、それは勿論ですけど…。なんかトラブルとかがあったときは…」
「なんだ!?君はそんなものを起こすつもりでいるのかい」
「と、とんでもない。そんなつもりはないですけどぉ…」
 管理人の態度に、私が戸惑っていると、
「う〜ん、解ったよ。そこで少し待ってて」
 といって、そそくさと自室へ引き返していった。書類でも持ってきてくれるのだろうか?
 それにしても、と私は思う。ずいぶんといい加減な管理人である。本当にこの先、このアパートでやっていけるのだろうか…。私は少しだけ不安になった。

 暫く待って、管理人が持ってきたのは、なんとテープレコーダーだった。
「書類を書くのは面倒だろう?なら、僕たちの会話をこれで録音しておこうではないか。なにかあって、裁判沙汰にでもなったら、これが証拠になる!」
 若い管理人は快活にそう叫ぶと、得意げな顔をする。勿論、私は狼狽するが、そんな事お構い無しに管理人は録音ボタンを押した。
「えーっ、まず、私はこの如月荘で管理人をやっている影戸輝でございます。そして、今、僕の隣にいるのが、ここに住みたいという若人…」
 そう言って、私を睨む。
「へっ?あ、あのぉ…」
「早く自分の名前を言いたまえ」
 管理人…影戸に促されて、私は戸惑いながらも自分の名前を口ずさむ。…なんだか、実にアホらしい。私は煙草を取り出すと口に咥えた。
「よろしい。じゃあ、今から条約を言うから、君は『YES』と答えてくれ。…それではまず一つ!煙草はいいが、決して家を焼かない!」
「はぁ?」
「返事は?」
「イ、イェス」
「ふたーつ。家賃は第一水曜日、僕のところに三万円を必ず現金で持ってくる事。三日は待つけど、それ以上待たせる場合は、即撤退を要請する」
「イ、イェス」
「みーつ。ペットを飼うのは基本的に駄目だけど、犬は許す」
「は、はぁ、どういうことですか?」
「どういうこともへったくれもない、僕は犬が好きなんだ!返事は?」
「イ、イェス…」
「よし、次で最後だ。よーつ。午後十時半以降は、部屋の中で騒音を鳴らさない。つまり静かにする事」
「あ、あのぉ、どうして十時半以降なんですか?」
「僕が寝る時間だから!…返事は?」
「イ、イェス…」
「オッケー!これで録音終了!」
 管理人はそう言って、停止ボタンを押した。
 一体なんだというのだろう。私はしばし呆然と煙草を咥えているだけだった。
「これで用件は済んだろう?」
 管理人は、肩眉を吊り上げて聞いてくる。
「え、ええ、まぁ…」
「じゃ、僕は帰るよ」
「ち、ちょっと待ってください」
 私は呆然としながらも、再び管理人を呼び止めた。
「なに?まだ用事があるのかい?いきなり僕を訪ねにきたかと思えば、やれ誘拐だの、やれ宴会だのって一人で騒ぎ出して。全く、君は落ち着きがないなぁ」
 それはあんただろう!とよほど言おうとしたが、また話が滅茶苦茶な方向へ行かされそうなので、ぐっと耐える。
「明後日、ここに越してきますんで…」
 私はそれだけ言った。
「あっそう。待ってるよ」
 管理人は手を上げると、テープレコーダー片手にゆっくりと自室へ戻っていった。
 私はその後姿を見送り、そのあとで大きく溜め息をついた。
 
 今日はなんだか、ずいぶんと疲れた…。