![]() |
| <三> それから三日後、私はレンタカーの軽四トラックを借り、荷台に引越しの荷物を載せて如月荘に向かっていた。 もともと、私自身マイカーを持っていたのだが、仕事を辞めたと同時にその車も売ってしまった。勿論、月給のなくなった私に残りのローンを支払える見込みがなくなったからである。 …いずれは、アルバイトでもしないと家賃も払えなくなるな。 そんな事を思いながら、アクセルを踏んでいた。まあ、少しの間は、失業保険なるものが宛がわれるし、多少の貯えもある。 煙草をくゆらせながら、ゆっくりとハンドルを右に切る。そして、閑散とした住宅街の細い路地を抜けると、やがて如月荘が見えてきた。 私はそのボロアパートの敷地内に車ごと乗り入れると、エンジンを止め、車を降りた。そして三日前と同じようにして、如月荘なる奇妙な管理人の住むアパートを見上げた。 …今日から新しい生活が始まる。 別にその事に希望が湧く訳でもなかったし、心が躍るわけでもなかった。なるべく人に関わらずに生きていきたい、そんな思いだけが私の頭にあっただけである。 空は快晴で何よりの引越し日和だ。少し蒸し暑くはあったが、夏が近づいている証拠であろう。 とりあえずは、あの偏屈な管理人に挨拶しておくべきだろう、と思い、彼の部屋へ向かった。自分の住む部屋の鍵を貰わなければ、荷物も運び込めない。 私はインターホンを押す。今日はギターの音は聞こえてこない。 暫く待っても返事がない。再びインターホンを押す。しかし、結果は一緒であった。管理人は、どこかへ出掛けているのだろうか。不審に思って、私がドアノブに触れようとしたとき、不意に後方でギターの音がした。何事かと振り返ってみると、例の管理人、影戸輝が勝手に人の荷物を漁っているではないか。 「へぇー、君も『アコギ』持ってるんじゃないか。しかも中々ビンテージものだね。ヤマハかぁ、見かけによらずシブいなぁ」 管理人はそういって、再び私のギターをかき鳴らす。 「うん、バランスのとれた音だね。ほぉう、ピックアップもついてるじゃないか。一九九三年に作られたやつだね。型番は…LL‐25Eか。ふーん」 言いながら、管理人はその場に座り込み、楽しそうにギターを弾いている。 私は、ゆっくりと彼のほうへ近づいていく。 「どうも、今日からお世話になります」 一応丁寧に頭を下げておいた。 「やあ、そういえば、君が来るとか言ってたのは、今日だったけ?すっかり忘れてたよ。今、ちょうど散歩から帰ってきたところなんだ」 私のほうに顔を向けず、ギターを見たままで管理人はそっけなく言う。 「その散歩の途中でね、近くの公園に寄ったんだけど、まだ幼稚園ぐらいだろうなぁ…女の子たちが集まって『かごめかごめ』をやってたよ。まだ、あんな遊びをする子供たちもいるんだね」 「はぁ、そうですか」 突然な会話だ。管理人は一体何を言いたいのだろうか。 「ところで君、『かごめかごめ』の歌を知ってるだろう?あれって、面白い歌だとは思わないかい。まったく詩の内容が理解できない。君、ちょっとそこの地面に歌を書いてみてよ」 そういわれて、私は頭の中で『かごめかごめ』を歌ってみた。別に断る理由もない。言われたとおり、人差し指で地面をなぞって詩を書いていく。 かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った うしろの正面 誰? 大体こんなものだっただろう。私が記憶している限りでは、これでいいはずである。 「どうだい?その意味が解るかな?」 管理人はそこでようやく私に顔を向け、悪戯を楽しむ子供のような笑みを浮かべた。 確かに、全くもって意味不明な詩である。 「うぅん、そういえば意味の解らない歌ですね。大体『かごめ』ってなんなんですかね?籠の中の鳥ってことは、カモメの事ですかね?」 私がそういうと、管理人は手を叩いて大笑いする。 「はははっ、君って中々面白いやつだな。『カモメカモメ』か!いゃぁ、傑作だね」 あまりにも馬鹿笑いされるので、私は少しむっとする。 「な、何がそんなにおかしいんですか?」 「ああ、悪い悪い。…いいかい、『かごめ』を漢字で書くとこうなるんだ」 管理人はそういって、地面に字を書く。 「『籠目』。…籠の編み目をさしてそう呼ぶ事があるんだ。でも、この動揺の場合では『かごむ』、つまり『かがむ』の命令形になるんだよ」 なるほど。私は一人座っている子供の周りを、手を繋いで囲っている子供たちの姿を思い浮かべた。 「でも、そうだとしても大して意味は通じませんよ」 私は思った事を口にした。 「そうだね。…そこで僕は、この歌は長い年月の間に詩の内容が微妙に変化してしまったと考えてるんだ。この歌は本来、身売り専門の女郎屋かなにかで唄われていた歌じゃないかな、ってね。それが子供たちの耳に伝わり、今の形になった。まぁ、遊び方自体はそんなに変わってないと思うけど」 「どういうことです?」 私が問うと、管理人は再びにやりと笑う。 「『かごめ』って、こんな字をあてるんじゃないかな」 そういって、先ほどと同じように、管理人は地面に字を書く。 「『籠女』…。つまり、籠の中に囚われた女性だ。そうやって、少し詩の内容を変えてみるとこうなる…」 籠女籠女 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの《番人》 《ツルン》と《仮面》が滑った うしろの《常連》 誰? 「ねっ、こうするとなんとなく意味が通じるようになる。籠の中の鳥、って言うのは、もちろん囚われた女性を喩えた言葉だね。そして、その女性が逃げないように、夜明けまで見張っている番人がいるんだ。その番人は、いつも仮面をかぶっているんだけど、実はその女郎屋に入り浸る常連の一人だったりする…」 そういわれて、私は管理人の書いた詩の内容を想像してみた。 暗闇の中、籠の中に囚われ、泣きながら座り込んでいる一人の女性。そして、そのうしろで女性をじっと見張っている仮面をつけた番人…。その番人の仮面は、鬼の面だろうか?それとものっぺらぼーのような、表情のない仮面か?…どちらにしろ、陽気なお面は連想しにくい。その番人が、女性を見張りながら、陰気な声でこの唄を歌っている…。 「不気味な歌ですね」 なんだか、背筋が薄ら寒くなるのを感じた。しかし、管理人は私の反応とは正反対にハハハッ、と笑うと、 「いま思いついただけだよ」 と、何も無かったかのように再びギターを弾きだす。 時間の無駄だった。やはりこの男とは、あまり関わらないほうがいい。不動産屋の主人が言ったように、まるで人を馬鹿にしている。 「荷物運ぶんで、鍵ください。二階の向かって一番端の!」 わざと気分を害したかのように声を荒げて言ってみたが、管理人はどこ吹く風といった感じで、 「ああ、そうだったね。二階の右端って言うと、二〇三号室だね。ちょっと待ってて」 といかにも涼しげな顔で、ギターをハードケースの中にしまい、自分の部屋へゆっくりと戻っていった。 三分ほど待っていると、管理人はややあって、鍵を持って私の前に姿を現す。 「はい、これが鍵だよ」 そういって私の手に鍵を置くと、三度(みたび)その場に座り込んで、私のギターを取り出した。 私はそれを無視して、所々錆びの浮いた狭い鉄製の階段を昇ると、目的の部屋を開け、中を覗いた。確かにこの前見た部屋と変わりはない。それだけ確認すると、私は荷物を部屋に運び込む作業を始めることにした。 しがない一人暮らしであるため、重たい荷物はそれほどない。小さな2ドアの冷蔵庫と十四インチのテレビ、あとは小さな箪笥ぐらいだろうか。その他諸々(もろもろ)は簡単に一人で持ち運びができる。とりあえず私は、軽い荷物から順番に部屋にもってあがる事にした。 しかしながら、軽いといっても、何度も階段を往復しなければならないので、結構疲れる。それでもせっせと作業を繰り返していると、ようやく残るは重い荷物のみとなった。 まずは、テレビを持ってあがる。十四インチなので一般家庭のものと比べてずいぶん小さいものである。階段の途中で何度か休憩しながら、なんとかテレビを部屋まで運び込む。あとは箪笥と冷蔵庫のみだ。 私は首に掛けていたタオルで汗を拭うと、ちらりと管理人の様子を窺った。どうやら、私を手伝うという気持ちは少しもないらしく、相変わらず呑気にギターを弾いている。そのうち、ギターに合わせて鼻歌を歌いだす始末だ。 「あの、管理人さん。残っている荷物があるんですけど、見ても解るとおり、一人で運ぶのはちょっと大変なんで、手伝ってもらえませんかね」 私は、冷ややかな視線を管理人に送る。すると管理人は、そこで初めて気づいたかのように私のほうを見た。 「冗談だろう?僕に肉体労働をやらせようって言うのかい?悪いが僕は、そういうことをしない主義なんだ。それに、僕の事を『管理人さん』なんて呼ぶのはやめてくれよ。首のしたが痒くてしょうがないんだ」 「そんなこといわれても、一人じゃ運び込めないんですよ!」 「人間、やればできるさ」 「そういうことじゃなくて…。あのですねぇ、あなたは人を助けるという気持ちは持ってないんですか?」 少し頭にきたので、そういってやった。 「君は何を言ってるんだ。そっちが勝手に困ってるだけだろう?なんだって僕が君を助けなきゃいけないんだ?」 管理人…影戸は無表情でそういう。 「ああ、そうですか、解りましたよ!もう、あなたになんか頼みません。そのギター返してください。僕のなんですから!」 「おいおい、大人気ないなぁ。そんな意地悪な事、普通言うかい?」 「あなたに言われたくありません!」 私はそういって、影戸からギターを取り上げると、ハードケースに荒々しくしまった。 影戸は肩をすくめて溜め息をつく。 「はぁ〜、解ったよ、手伝ったげるよ。全く、君はずいぶんと独裁者的な個人主義だなぁ」 影戸はうんざりしたような表情で、再び溜め息をついた。 …だから、それはあなただぁぁぁ! よほど叫ぼうかと思ったが、手伝ってくれるといってくれた手前、その言葉をぐっと飲み込む。 「それで、何を運ぶんだい?あまり重たいようだったら、工事現場からクレーン車でも借りてくるよ」 荷物を運んでいる間じゅう、影戸からは嫌というほどの嫌味や皮肉を言われ続けたが、なんとかすべての荷物を部屋へ運び込む事ができた。 私は荷解きができず、散らかったままの部屋に座り込むと、煙草を咥え汗を拭った。影戸も私の近くに座ると、ポケットからガムを取り出し、口の中に放り込む。彼はどうやら汗をかかない体質らしく、意外と涼しげな顔だ。 「いゃあ、ようやく終わったね。おかげで無駄な体力を消費してしまったよ」 彼は、鼻先の眼鏡をゆっくり押し上げる。 「すいません、助かりました。ありがとうございます」 あまりいいたくはなかったが、感謝の言葉を口にする。 「なぁに、それほど感謝される事はやってないさ。第一、これは強制的にやらされたも同然だからね」 相変わらず影戸の嫌味は続く。しかし、その表情は、言葉とは裏腹に実にさわやかな笑顔に満ちていた。 「さて、強制労働も終わった事だし、僕はそろそろ部屋へ戻るよ。しなくちゃいけないことが山ほど残ってるんだ」 そういうわりには、ずいぶんとのんびりしているではないか。 「まさか、荷物の整理までしてくれ、なんて言わないだろう?」 影戸はそういいながら、立ち上がった。 「あのぉ、この近くにスーパーとかないんですかね?コンビにでも構わないんですけど」 私は、立ち去ろうとする管理人のうしろ背に尋ねた。 「君、人に頼ってばかりじゃ人間精進しないぜ。自分で考え自分で行動する、それが成人した人間のとるべき姿勢だ」 影戸は、振り向きもせずにそういうと、姿を消した。 …自分で探せ、てことか…。 仕方なく私は、散歩がてら近所を散策する事に決めた…。 |
<四> 気づくと正午をとっくに過ぎていた。昼食はもちろん食べてなかったし、夕食の準備さえもできてない。今日からは自分で食事を作らなければならないのだ。 私は財布をポケットの中にねじ込むと、荷物の片付けもそこそこに部屋を出た。 同じ県内とはいえ、もともと家に篭もりがちのわたしにとって、足を踏み入れた事のない地域は異邦の地同然だった。何の手がかりもなく、とりあえずは近辺をぶらぶらと歩いてみるが、その辺りはほとんど住宅街のため、入り組んだ狭い路地が続くばかりだ。 やがて住宅街を抜けると、ようやく何件かの店を見つけた。小さな電気屋、スーパー店、コンビニエンス・ストアー…。商店街ほどではなかったが、思ったよりもいろんな店がところどころに点々とあった。規模の小さなものがほとんどであったが、私にとっては十分だ。しかしながら、如月荘からはなかなかに距離があるので、これから毎日のように通うとなれば、自転車でも購入したほうがいいかもしれない。 そんな事を考えながら歩いていたが、私は一つのスーパーに入ると、今晩のおかずになりそうなものを買った。ついでに米も買っておきたかったのだが、なんとなく今日は米を研ぐ気にはなれそうになかったので、安いステーキ肉と、何故か食パンを買ってしまった。妙にアンバランスだな、と自分で思いながらも、ステーキに振り掛ける塩・胡椒、そしてパンにつけるマーガリンを買った。普通ならば、ステーキにかけるソースも買うのだろうが、私はあまりソースというものを掛ける習慣がない。塩・胡椒で十分だ。 一通り買い物が終わって店を出ると、私はパンを焼くトースターを持っていない事に気づいた。ついでにステーキを焼くフライパンさえもない。財布を覗いてみたが、今はそのようなものを買う持ち合わせはなかった。 結局私はコンビニにより、弁当を買う。一人暮らしとはいえ、必要なものは結構あるもんだな、とその時しみじみ思った。 如月荘に帰る途中、私はとある小学校を見つけた。別段珍しいことではなかったが、歩いているときその校内から、実に大きな木が覗いて見えたので、少しだけ興味を持った。正門を見つけて学校名を確認すると『M小学校』と書かれてあった。門は開いていたので、私は校内に入る。 日曜日であるため、もちろん生徒たちの姿は見えなかったが、部活動(小学校ではクラブというのだろうか?)をしている子供たちが、ユニホームを着てサッカーをしている姿が広い運動場に見えた。 校舎のほうは、長年風雨に晒されてきた痕がありありと解るような様子で、ずいぶんと長い歴史を持つ小学校だとわかる。母校ではなかったが、少しだけ懐かしさがこみ上げてきた。 …あの頃は、みんな純粋だった…。 将来に対する恐れや不安など、あの頃は微塵もなかった。ただ、毎日が楽しくて泥に塗れ、汗に塗れ、疲れることも知らずに毎日はしゃぎまわっていた。無責任な大きな夢を描き、それでもその夢が無責任だとは思わずに、その夢が必ず叶うと信じて疑わなかったあの頃…。いつの間にこんなにも時間が過ぎ、あの頃の友達は変わってしまったのだろう。もちろん、私もその一人だ。嘘を覚え、人を騙すことを覚え、自分の保身だけを考える。人を見下し、貶して、話すことといえば金のことや異性の話ばかりだった。 …人は大人になるほど馬鹿になる。 何かの本で読んだ、そんな一文が頭に浮かんだ。私もその馬鹿の一人なのだ。そう思うと、少しだけ憂鬱になった。一体、自分はどこまで堕ちてしまうのだろうか…。 そんな事を考えながら校庭を歩く。そこにはジャングルジムやシーソー、背の低い鉄棒などが並んである。学校の昼休みなどは、子供たちがここに集まり無邪気な声を上げながら遊ぶのであろう。 そんな校庭の隅に、例の大きな木は聳え立っていた。どうやら楠(くすのき)らしい。大の大人が三人手を繋いで囲んでも、まだ囲みきれないであろう大きな幹。青々と隙間なく広がる葉は、遥か天空で広がっている。 そんな時、その楠の幹の下で一人の若い女性を見つけたのである。 私は、その瞬間を生涯忘れることはないであろう。 微かな木漏れ日の舞う幹の袂(たもと)。そこに彼女は立っていた…。 真っ白な丈の長いワンピースを着ていて、手のひらを胸の前で組み、目を瞑ったままで楠を見上げている。私のほうからは横顔しか見えなかったが、病的なほどの白い肌に、肩まで伸びた艶のある髪。長い睫毛は燐として上を向いており、その姿はまるで絵画のなかにあるような、幻想的で神秘的な女神の姿に見えた。 私は暫く、呆然とその美しい彼女の姿に見惚れていた。 …あれは? 私は、楠の根元に立てかけられた、銀色の細い杖のようなものに気づく。 「誰かいるんですか?」 一瞬、彼女から視線を逸らした時に、彼女は私に気づいたらしく、いつの間にか瞑っていたはずの目を開き、私のほうを向いていた。 大きく魅力的な瞳だった。しかし、少し様子が変だ。彼女の視線が、まっすぐ私の顔を捉えていない。私の背後に他の人がいるのだろうかと振り返ってみたが、やはりそこには私一人しかいなかった。 「刑事さん、ですか?」 彼女は依然、定まりのない視線のままでそう尋ねてきた。声を発するたびに動く彼女の小さな唇は、紅をさしている様ではなかったが、淡い桜色をしている。 「あ、ああ、いえ…」 突然彼女に声を掛けられて、私の動悸は早鐘のように鳴り響いていた。なんと切り返せばいいのか解らず、私は少しばかり戸惑う。さすがに、あなたの姿があまりにも美しいので見惚れていました、などとは到底言えない。 「あ、あのぉ、近くを通りかかったら、この楠が見えたもんですから…。は、ははっ…」 意味もなく、私はぎこちない笑いをあげる。 「そうなんですか…。ゴメンなさい、私、目が不自由なもので」 彼女は少しだけ首を傾けて、そういった。 …ああ、そういうわけか。 傍目(はため)から見ても、彼女がそうであるとは全然気づかないであろう。しかし、彼女の視線と楠の根元に立てかけられた杖が、それを真実のものとして物語っていた。 暫く沈黙ができたが、このまま黙っているのも心苦しく感じたので、私は口を開く。 「本当に大きな木ですね。人間で言うとジャイアント馬場みたいだ」 別に笑いをとろうと思って、そういったわけではない。私は心から真面目にそう思い、それを口にしただけだ。それであるから、突然彼女がくすくすと笑い出したのに、私は少し驚いた。 「面白いかたですね。…近くに住んでらっしゃるんですか?」 唐突な彼女の質問である。 「えっ、僕ですか?あ、いえ、今日近くに越してきたんです。だからちょっと散歩がてら近所を散策してたところなんですよ。はい、決して怪しいものではありません」 もう一度言うが、私はふざけているつもりはない。心から真面目だ。それなのに、彼女は再び小さく笑った。 「フフフッ、別に怪しい人だなんて思ってませんよ」 ずいぶんと笑いを堪えているようだ。そんなに私の言葉が面白かったのであろうか。 私は苦笑いを浮かべる。 「あ、あのぉ、あなたはこの近くに?」 初対面の女性にそんな事を聞いて怪しまれないだろうか、と必要以上にびくびくしながら私は尋ねた。 「ええ、ここの小学校のすぐ近くなんです。毎日散歩途中、ここへは来てるんです。平日の日なんかも、学校が終わった頃にここへくるんですよ」 彼女が気さくにそう答えてくれたので、私は少し安心した。 「目が見えないのに散歩するなんて、変でしょう?」 彼女はそう言う。 「いや、別にそんな事はないと思いますけど…」 私がそう答えると、彼女は今度は、先ほどとは反対側に少し首を傾けた。 「失礼ですけど、まだお若い方ですよね?声の感じでそう思うんですけど」 「え、ええ、一応は若いです。もうすぐで二十三になります」 そう答えると、彼女の顔が一瞬ほころんだ。 「そうなんですか!じゃあ、私と一緒ですね」 そこで初めて、彼女は明るい声を出した。 「お名前も聞いていいですか?」 「ぼ、僕のですか?」 「あっ、私は泉っていいます。泉玲花(いずみれいか)」 そういって、彼女は私の姿を真摯と見つめる。とはいっても、その視線はやはり微妙にずれているが…。 「えっと、僕は…」 女性のほうから先に名前を聞かれたのは初めてのことだった。そのためだろうか、私は落ち着きなく辺りを見回し考えた。 …ここは一つ、ウケを狙うべきなのだろうか? 必要以上に気負ってしまう。 楠木の近くに、薪を背負い、本を読みながら歩いてる姿の、二宮金次郎(にのみやきんじろう)の像が建てられてあった。私はそれを見て思わず、 「…に、二宮です。二宮金次郎といいます!」 そう答えた。私の予想では、彼女がここで笑うはずだった。しかし、彼女は、 「二宮さんですか」 と、真面目にうなずく。どうやら本当に私の名前と受け取ったらしい。 「あ、あれ?…あのぉ、えっとぉ…」 「二宮さんは、大分の人ですか?引っ越してきたばかりだ、って言ってましたけど」 本名を言い直そうとする私を尻目に、彼女は次の質問をしてくる。私は完全に、本名を名乗るタイミングを失ってしまった。 「あ、は、はぁ…、そうですけど。引っ越したといっても、実家を出ただけですから。…一人暮らしでもしてみようかな、と思って」 私が言うと、彼女…玲花はそうなんですか、と呟いた。 再び沈黙があった。 私は先ほどから、異常な胸の高鳴りを覚えている。 「い、泉さんはあれですか?この木が好きなんですか?」 自分でもよく解らない質問だ。 案の定、彼女はくすりっ、と笑う。 「ここの小学校は、私の母校でもあるんですよ。この楠は、小さいときからの私の友達なんです…」 彼女はそういって、その表情に少し陰を宿した。 「…私、小さい頃から暗い性格で、友達もあまりいなくて…。お昼休みのときなんかは、ここに来て一人で本を読んだり、皆が遊んでいるのを、ただぼうっと見てたりしてたんです。あの頃は、私の目も見えていて…、楠葉の間からこぼれる木漏れ日が、とても綺麗だったのを憶えてる…」 少しばかり悲しい表情を見せる彼女は、やはりどことなく幻想的で、私はあまり現実感を持てないでいた。これも、彼女が言うように綺麗な木漏れ日のせいなのであろうか。 「昔は目が見えていた、って病気かなにかしたんですか?」 無神経で迂闊な質問かもしれなかったが、私はそう尋ねた。 彼女は翳(かげ)りのある微笑を浮かべる。 「中学三年生のときに、母と乗っていた車が事故にあって、その時、酷く頭を打ったみたいで…。その後遺症で目が不自由になったんです。間近なものはうっすらと見えるんですけどね。…母はその事故で亡くなりました」 「ああ、そうなんですか…。ごめん、なんか変な事聞いちゃったな」 私が言うと、彼女は首を横に振った。 「いえ、いいんですよ。もうずいぶん昔の事ですから」 彼女がそういってくれたので、私は少し安心した。 サッカーをしている子供たちの声が、この中庭まで聞こえてくる。声変わりのしていない甲高な声…。私も以前は、あんな声で叫び声を張り上げていたのだろうか。よくは憶えていない。 「子供って、元気ですよね。声だけを聞いてても羨ましくなるくらい。ただ、『今』て時だけを考えてて、それだけに夢中で…。でも、変に優しかったり、残酷だったり…不思議ですよね。なんだか子供って、陰と光りが重なってできたみたい」 子供たちの声が彼女の耳にも届いたのか、詩情的とも哲学的ともいえる言葉を呟いた。 私にはよく解らなかったが、彼女が『陰と光り』と呟いたところで、私の頭には如月荘の管理人、影戸輝の顔が思い浮かんだだけである。 「…じゃあ、そろそろ私帰ります。今日はなんだか楽しかったです」 彼女はそういって頭を下げ、楠の幹に立てかけてあった銀色の杖を手に取る。 「そ、そうですね。じゃ、僕も帰ろうかな。なんかお邪魔したみたいでごめんね」 そうは言ったが、本当はまだ彼女と話をしていたかった。 彼女…玲花はにこりと微笑んで、再び頭を下げる。 「あ、あのぉ…」 気づくと私は彼女を呼び止めていた。自分でも驚きだ。 「また…、ここに来てもいいですかね?あっ、お邪魔だったらいいんですけど…」 私が言うと、彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、やがて勿論ですよ、とうなずく。 「そうですね…、二宮さんってナゾナゾ得意ですか?」 唐突な彼女の問いに、私は少々面喰う。 「あ、はぁ、どうかな…」 「ふふっ。じゃあ、問題出しますね。この次来るまでに、答えを考えててくださいね」 玲花は悪戯っ子のような、無邪気な笑みを浮かべた。 「この楠の根元に、長さ四メートルの丈夫な綱で鼻面をしっかり括られた牛がいるとします。そこに一人の牛飼いさんがやってきて、楠の根元からちょうど五メートル離れた位置に餌を置いて立ち去っていきました。でも、その牛は牛飼いさんがいない間に、その餌をペロンと平らげてしまいました。さて、牛さんはどうやって餌を食べたのでしょう?綱は解けたり切れたりはしてませんよ」 |
<五> その日の夜はあまり眠れなかった。 …泉玲花。 彼女の名前と、あの可憐な姿が頭の中に憑いて離れない。それにいつまで経ってもあの胸の高鳴りが治まらなかった。 …明日も逢いにいこう。 …何を話せばいいんだろう? …恋人なんかはいるのだろうか? …彼女は僕の事をどう思ったのだろうか? そんな事ばかり考えていて、睡魔が襲うよりも、逆に目が冴える一方だった。 彼女とはまだ一度しか会っていないのに、しかもほんのわずかな時間だ。私は一体どうしてしまったというのだろう。 ずいぶん、夜が長く感じられた…。 時折、彼女が別れ際に出した『ナゾナゾ』なるものも考えたりしてみたが、頭の悪い私にはちんぷんかんぷんな問題である。三メートルの綱で繋がれた牛が、どうやれば五メートル先にある餌を食べられるというのであろう。いくら考えても、それは不可能のように思える。となれば、何か気の利いた駄洒落のようなオチでもあるのだろうか…。私には思い浮かばなかった。 そんな事を考えながらも、私が眠りについたのは、恐らく夜が白み始める頃だった。 けたたましい突然のベルの音で、私は布団から飛び起きると、そばにあった目覚まし時計を確認した。 …午前七時。やばい、遅刻だ! 急いで服を脱ごうとするが、そこでふと思い出す。 …そういえば、仕事は辞めたんだ。 会社を辞めて一週間近くになろうとしていたが、いまだいつもの習慣が抜け切れず、このような状態になる事がしばしばあった。 私は大きく溜め息をつくと、脱ぎかけた寝間着を着なおし、再び布団にもぐったが、もう寝付くことはできなかった。私は一度目がさめると、中々寝付けない体質らしい。結局、顔を洗い、服を着替える事にする。 眠りに就くのが遅かったせいだろうか、頭の中がぼうっとしたままで、私は荷物の片付いていない居間の真ん中に座り込み、煙草を取り出して火をつけた。勿論、その間も頭の中にあったのは泉玲花であった。 なんとなく、昨日の事が夢のように感じる。 暫くそのままでぼうっとしていたが、そうしていても仕方がないと思い、私は少しずつ周りを片付け始める事にする。 三十分もしないうちに、粗方の荷物は整理がついた。もともと荷物が少ないので、楽といえば楽だった。テレビのアンテナも自分で繋ぐ事ができたし、冷蔵庫に入れ込むような食物も今のところない(昨日買った、食パンとステーキ肉は入れてあるが…)。 今日は予定を立てた買い物をしよう、と思い、私は必要そうなものを紙に書き留めた。 ずいぶん悩みはしたが、ようやくそれに満足するとそれでは早速、と出かけようとしたが、時計を見るとまだ午前八時である。開いている店は少ないであろう。 早く起きすぎたな、と思いながらもテレビをつけてみるが、もともと私はテレビを真剣に見る人間ではない。興味をそそるような番組がないと知ると、すぐにスイッチを切った。 …どこか近くに自動販売機でもあったかな? 缶コーヒーでも買いに行こう、と私は財布片手に部屋を出ることにした。 玄関を出るとまず、管理人の影戸輝が地面を竹箒で掃いてる姿が目に入った。日本人離れした容姿に竹箒とは、なんともミスマッチな感じがする。 私は錆びの浮いた階段を降りるとおはようございます、と一応挨拶した。 「やあ、お早う。これからお勤めかい?ご苦労な事だね」 影戸は竹箒の動きを一度止めて、肩をすくめた。 そういえば、管理人に自分が無職である事を一言も言ってない。尋ねられていないのだからそれは当然であるが、一応は言っておいた方がいいだろう。そんなので家賃が払い続けられるのかい?などと嫌味を言われるかもしれないが、仕方ない。 「管理人…じゃなくて、影戸さん。実は僕…、無職なんです」 私は、単刀直入に言う。 しかし影戸は、唐突な私の告白に別段驚いたりもせずに、 「ああ、そうなの。ふーん」 と無関心にうなずくだけだった。 「じゃ、暇なんだろう?僕の部屋にでも寄っていかないかい?珈琲のいっぱいぐらい入れてあげるよ。それとも、どこかにお出かけするのかな?」 影戸は竹箒を肩に担ぐと、部屋に戻ろうとする。どうせ私も珈琲が飲みたいと思っていたところだ。管理人の言葉に甘える事にした。 影戸の部屋へ入ると、私はまずその部屋の様子にしばし呆然とした。部屋の中が異常に汚いとか、臭いとか、そういうことではない。 リビングの向かい合う両壁には、横幅が三メートル、縦幅は天井すれすれ(三.五メートルほどだろうか)の大きな本棚が設けられていて、その二つの本棚には上から下までぎっしりと本が詰め込まれている。向かって右側の本棚に立てられている本の背表紙には、ほとんど英文のタイトルが記されているから、恐らく洋書の類であろう。左側の本棚は日本語タイトルの本がほとんどであるようだが、暫く目で追っていても私が理解できそうな本は見当たらない。 その両壁の本棚に挟まれるようにして、真ん中にガラス張りの小卓があり、さらにその小卓を挟む形で黒革のソファが二つ置かれている。しかも、その小卓の上にはチューイングガムと思われるものが、束になって置かれてあった。 リビングの窓際には、学生の頃、職員室で見かけるようなスチィールデスクがあり、そのうえに一台パソコンが置かれてあった。パソコンの電源はつけたままになってある。 「どうしたんだい?ぼうっとしちゃって。まぁ、そこのソファに座っててよ」 影戸に促され、私は感嘆の溜め息をつきながらソファに腰掛けた。その間に影戸は、キッチンのほうへ姿を消す。 「影戸さん、ここにある本は全部読んだんですか?古本屋でも開けそうですね」 キッチンに立つ影戸に呼びかける。 「はははっ、それでもかなり整理したんだけどね。この部屋に入らなかったのは、他のところに預けてあるんだよ。何か読みたい本でもあれば貸してあげるよ。心理学系統の本なんか面白いね。あと、脳に関する書物なんかも…。ああ、それから、僕を『さん』付けで呼ぶのはやめてくれ。君とそんなに歳は変わらないはずだろう?なんだか君に『さん』付けされると、僕がずいぶん年寄り見たく思えてくるよ」 影戸はそういいながら、缶コーヒーとカップに入った珈琲を両手に持って、向かい側のソファに座った。そして、『缶コーヒーのほう』を私の前に置く。 「僕の知人がね、缶コーヒーを山ほどくれたんだ。でも、僕は缶コーヒーは飲まない主義だから、君飲んでくれ。お代わりならいっぱいあるよ」 平然と言いながら、影戸はカップに入った珈琲をうまそうに啜る。これではまるで嫌がらせだ。そうでなければ、完全に人を馬鹿にしている。どうして、客であるはずの私が缶コーヒーで、影戸自身はちゃんとしたレギュラーの珈琲なのだ。 私は滲み出る怒りを何とか抑えながら、一応缶コーヒーのふたを開けた。 |
「おっと、そうだ!君にいいものを見せてあげるよ。ちょっと待ってて」 突然影戸は立ち上がると、別の部屋(恐らく寝室であろう)に消えた。 暫くしてリビングに戻ってきた影戸の手には、一本のアコースティックギターが握られてあった。 「これいいだろう?僕の知人にねクラフツマンがいるんだけど、その知人と一緒に作ったオリジナルギターなんだ。表板にはエゾ松の単板を使ってあるんだ。裏・側板はローズウッド。勿論、裏板は2ピースだよ。ネック材にはホンジュラスマホガニーを使ってて、指板と下駒はエボニーだ。かなりいい音がするんだぜ」 そういって影戸はギターを弾き始める。私には、彼が何を言っているのかさっぱり解らなかったのだが、恐らくいい素材で作ったギターを私に自慢したかっただけなのであろう。 私は影戸のギター捌きを暫く眺めていたが、彼の腕がかなりである事に今頃気づいた。アコースティックギターをまるでエレキギターのように弾きこなしている。 「影戸さ…くんて、ずいぶんギターがうまいですね」 私は思わず呟く。 「そんな事はないさ。僕なんかまだまだ未熟者だよ。上にはうえがいる」 そういわれると、なんだか自分が情けなく思えてくる。私は簡単なコードフォームしか押さえられないのだ。影戸が未熟者であるなら、私は一体なんだというのであろう。 「少し前までね、ギターを集めるのが趣味だったんだ。ここにはないけど、知人の家にたくさん預けてあるんだ。君にも見せてあげたいなぁ」 影戸はそういって、ギターをソファの後背に立てかけると、再び珈琲を啜った。 そんな時、私はふと玲花が出したナゾナゾの事を思い出した。もし、私が彼にその問題を出したら、なんと答えるだろうか。興味が湧いてきた。 「影戸君。突然だけど、ナゾナゾは得意?」 影戸は不意を突かれたように、目を大きく見開く。 「本当に突然だな。一体なんだい?藪から棒に…。今からクイズ大会でもしようって言うのか?悪いけど、僕はフェアな問題しか解く気にはなれないよ。『パンはパンでも食べられないパンはなんだ?』なんて問題は論外だね」 「多分、そういうのじゃないと思うけど…」 「多分、て…。ははん、君も答えを知らないのか。まぁ、面白そうではあるね。どんな問題なんだい?」 私は泉玲花に出題された通りの問題を出した。こう見えても、私は中々記憶力がいいのだ。影戸に一字一句の間違いもなく問題を伝えた。 「どう?さすがの影戸君にも解らないでしょう?だって、常識的に考えれば、ぜんぜん不可能な状況だもんね」 私は影戸がよくするような、皮肉の笑みを浮かべた。しかし、影戸は平然としたような表情で、小卓のうえにあったチューイングガムを一つだけ口に放り入れると、 「それのどこがナゾナゾなんだ?」 などという。 「え、いやぁ、だから三メートルの綱で繋がれた牛が、どうやれば五メートル先の餌を食べれるか、という…」 「きみ、問題を出し間違えていないかい?」 「いや、それは絶対にないです」 確かな自信があった。 「ふ〜ん。じゃあ、そういう問題なんだね。面白くもなんともない」 「もしかして、答えが解ったんですか?」 「解ったもなにも、そのまんまじゃないか」 影戸は呆れ顔で私を見る。 「どういうことです?僕にはさっぱりわからない」 すると今度は、影戸が皮肉めいた笑みを浮かべる。 「じゃ、君。この問題がわかるかな?」 「ちょ、ちょっと、さっきの問題の答えは?」 「まあいいから聞きたまえ。…周りに全く生物がいない、風も吹かなければ地震も起きない。それなのに、そこに建っていた家のドアは開いたりひらいたりしていた。…どうしてか?」 「生物がいない、て人間も?」 「勿論。いかなる生物も存在しない」 不可解な問題だ。風も地震もなく、どうやってドアが動くというのだろう。 「もしかして、お化けが動かしているとか?お化けは死んでいるから生物じゃないし」 「それはアンフェアだな。そんなものも存在しないよ」 私はうーん、と唸って五分ほど考えていたが、どうしても答えが見つからない。 「ああ、解らない。降参します。答えを教えてください」 私が両手を挙げると、管理人は大声で笑い出した。 「はははっ、君は本当にからかい甲斐があるな。よく問題を反芻してみたまえ」 何がそんなにおかしいのか。私は面白くない。彼に言われたとおり、問題を反芻してみるが、やはり答えは解らない。 「まだ解らないのかい?ドアが『開いたりひらいたり』してるんだぜ」 「アイタリヒライタリ?…あっ!開いたりひらいたり、て同じ事じゃないですか!」 「大正解!つまり、はじめからドアなんて動いてないんだよ」 影戸は実に楽しそうに、まるでシンバルを持ったチンパンジーの玩具のごとく手を叩いて笑う。 私はいい加減うんざりしてきた。その気持ちがダイレクトに私の表情に出たのであろう、影戸はまあまあ、そんなに落ち込むことはない、と言いながら私に一枚ガムをくれた。 「さて、君の出した問題も、僕の出した問題と大して変わりはない。つまり微妙な言葉を使った、心理的なトリックが問題の中にあるんだ。…いいかい、楠の根元に三メートル綱で鼻面を括られた牛、だ。鼻面だぜ」 そこで私は、思わず指を鳴らしてしまった。 「ああ、そうか!言い換えれば、三メートルの綱で鼻面を括られた牛が楠の根元にいる、てのと同じだ。つまり、つまり、根元に牛が括られているわけじゃないんだ!」 「そういうことだよ。それであるから、牛飼いが何メートル先に餌を置こうとも、牛は自由に動けるわけだから何の問題もない。大体において、一般のイメージでは、牛は結ばれていてあまり動けないという印象が強い。だから、そういう先入観が働くのさ」 「ははぁ、なるほどね」 私は妙に納得して、何度もうなずいた。答えが解ればなんでもない簡単な問題だ。 影戸はそんな私の姿を見てか、人差し指で眼鏡を押し上げると、 「頭の柔軟性は人間にとって、とても重要なものなんだよ…」 と、いきなり講義らしきものを始めた。 「…僕たちは幼い頃から習い覚えた沢山の『常識』を持ってるだろう?確かに『常識』ってやつは、日常生活においては大いな有用性を示してくれる。だけど、時と場合によってその常識ってやつはもろくも崩れ去ってしまうものなんだよ。何の知識も常識もない子供やチンパンジーなら、苦労もなく解ける問題も、大人の頭で考えると以外に難しい事があるんだよ。豊富な知識や常識は決して無駄なものではないけど、時にはそれが思考の妨げとなる場合もある。でもね、そうとは解っていても頭を切り替えるのは中々に難しいね。どうして人間の思考は、こうまで『常識』や『過去の経験』にとらわれてしまうのだろうか?」 影戸はそういって、右手の人差し指と親指で、自分の下唇を揉み始めた。 「…人間の頭の仕組みがあまりにもうまくできすぎている…。僕はね、そう考えているんだ。いつもいつも環境の変化に即応して、人間の思考力が動員され、精神的エネルギーが傾けられるんだから、人の心は疲れてくたくたになってしまう。そこで人の心は、適当なところで手を抜き、ほね休みを考える。特に、過去において何回か経験し、常識に従って行動して差し支えないような問題の場合、人間の頭はてきめんに思考の節約をしてしまうことになる。そういうふうだから人間の頭は固くなり、創造的な思考を大いに妨げる事になるんじゃないかな」 影戸は一気にまくし立てると、満足げに一度溜め息をついた。 「え、ええ、まあ…、そうかもしれませんね」 私は管理人の言葉を受けて、とりあえずうなずいておいたが、本当は話の内容の半分も理解できていない。 「君、本当に僕の言葉が理解できてる?冴えない顔は生まれつきなのかな」 どうやら、彼は私の心のうちが読めるらしい。しかも皮肉つきだ。 私が反論できずにもじもじしていると、影戸は一度肩をすくめた。 「まあ、いいか。…それにしても、君が出した問題、一体誰に出題されたんだい?ナゾナゾ好きの友人でもいるのかな?」 「う、うん。と、言うか…。影戸君、M小学校って知ってます?ここから三キロほど離れたところにあるんですけど」 「ああ、あの大きな楠がある小学校だろう?勿論知ってるさ。もしかして、そこの先生からナゾナゾを出されたのかい?」 「いや、違うんです…。そこの楠の下で、たまたま会った女の人に突然出題されて…」 私は泉玲花の顔を思い浮かべる。 「…とても綺麗な人だったよ。なんとなく、不思議な感じのするコで。…彼女、目が不自由なんだ」 「なんだって!?」 突然、影戸が素っ頓狂な声を上げたので、私は驚いて思わずソファの背もたれに仰け反った。 影戸は鋭い眼光を私に向ける。 吸い込まれそうな蒼い瞳。 まるですべてを見透かしているような。 私の心の奥までも…? …この男は…!? 「きみ、その女性の名前は?」 ゆっくりとした口調で管理人が尋ねてくる。 「えっ、ああ…、泉玲花って言ってました…」 私が答えると、彼の片眉が歪(いびつ)にあがるのが解った。 |
<六> 影戸輝は私から視線を逸らすと、大きく溜め息をついた。 「彼女とは関わらないほうがいいよ。これは『忠告』だ」 唐突の影戸の言葉。勿論私は面喰う。 「な、何をいきなり言い出すんですか!?…まさか、泉さんを知ってるんですか?」 「知らなきゃ、こんな事は言わないよ」 影戸は私から視線を逸らしたまま言う。 嫌な予感がした。管理人は泉玲花を知っている…。 「もしかして、泉さんと…」 私が恐る恐る尋ねようとすると、影戸はそれよりも先に私の言葉をさえぎり、あからさまな嫌悪感を表情に出した。 「誤解しないでくれたまえよ。知っているといっても、実際には会ったこともないし、君が思っているような卑しい気持ちで忠告しているわけじゃない。彼女自身に対しては、これっぽっちの興味もないよ」 「ああ、そうなんですか…。でも、関わるなって、どういうことなんです?」 「それはいえないね。堅く口止めされてるんだ」 「誰にです?」 「困ったときだけ僕を頼ってくる、迷惑な知人さ」 そんな事を言われても、余計に訳が解らない。 もしかして、影戸の知人が泉玲花に想いを寄せているのだろうか。しかし、それにしても関わるな、という言葉はそれにそぐわないような気がした。 …そういえば。 私はふと、昨日の彼女のある一言を思い出した。いくら目が不自由だといっても、あの台詞は少しおかしい。 「そういえば彼女、僕のほうに気づいて、いきなり『刑事さんですか?』なんて尋ねられた…。何か関係あるんですか?」 私は管理人にそう尋ねる。 「君の言ってる『ケイジ』さんは、国家公務員の刑事さんなのかな?それとも、人名のケイジさん?」 影戸に逆に質問され、私は戸惑った。 確かにそうである。私はてっきり警察の刑事だと思い込んでいたのだが、人名である可能性もある。『ケイジ』というなまえからすれば、恐らく男性の可能性が高い…。 …もしかして、彼女の恋人の名前かも…。 そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。…何故だろう? そんな事を考えていた私は、ずいぶんと暗い顔をしていたのだろう。影戸は多分、私のその表情を思いつめた顔、と勘違いしてか、突然、解ったよ、と顔を顰めた。 「そんな自殺志願者みたいな顔をしないでくれたまえ。訳を話せばいいんだろう?」 そういって、鼻先にずり下がった眼鏡を人差し指で上げる。 「…実はね、この話は君の出したナゾナゾなんかよりも、実に興味深くて面白いものなんだ」 管理人はそういって、意味不明な笑みを浮かべた。 「彼女の…泉玲花の父親、泉健作(いずみけんさく)は、三ヶ月前に『死亡』しているんだ」 「死んでるって、事故か病気ですか?」 確か、彼女の『母親』は事故で亡くなっているはずである。 「いやいや、そんな単純なものじゃないんだよ。最初はね、『自殺』だと思われていたんだ」 「自殺…?『最初は』って、よ、よく解りませんけど…」 「まぁ、人の話を最後まで聞きたまえ。…泉健作は自宅のほうで死体で発見されたんだ。死因は、額に受けた『銃弾』だ。無論、即死だね」 「じゅ、銃弾ですって!?銃弾って、鉄砲の弾の事でしょう?」 私は頓狂な声を上げる。銃で自殺する人間など、日本国内においては実に珍しい事であろう。 「当たり前だろう。でも、鉄砲って言っても、猟銃みたいな大きな鉄砲じゃない。日本の警察が持っているような小型のリボルバー式の短銃さ。…その拳銃は健作氏の右手に握られていたそうだよ。勿論、額に受けた銃弾も、その銃から発射されたものだ。リボルバー式の銃には六発弾が入るんだけど、健作氏の握っていた銃には五発しか入ってなかった。つまり、あとの一発は健作氏の額の中に入っていたってことだね。銃弾の型も、健作氏の握っていた短銃と一致している。それに加えてね、自宅の窓や玄関には、すべて鍵が閉められていたらしいんだ。要するに、鍵を使って玄関を開けない限りは、部屋の中に入れない状態だったわけだ」 「それって、『密室』ってやつですよね」 推理小説などでよく使われる言葉だ。実際警察の人間が、このような状況を『密室』などと呼ぶのかは疑問であるが…。 「へえー、面白い言葉を知ってるんだね。まあ、その通りではあるんだけど」 「てことは、本当に泉さんの父親は自殺したんですね。自分で自分の額を打ち抜いて…」 「現場の状況から見ると、そうなるね。警察も当初はそう思っていた。…ちなみに、拳銃の出所はまだ捜索中らしいよ。拳銃なんて、一般市民が簡単に持てるものじゃないからね」 「ねえ、影戸君。さっきから『最初は』とか『当初は』とか言ってるけど、今は自殺したとは思われてないの?」 私は、管理人に疑問を投げかける。 「そこなんだよ、君。…司法解剖の結果、彼の死は自殺だと断定できなくなってしまったんだ。面白いだろう?」 「面白いって…。どういうことなんです?大体、被害者の状態が明らかに自殺であると見て取れるなら、司法解剖なんてしないんじゃないんですか?それとも、何か不審な点があったんですか?」 「それは違うよ。『自殺』って言うのは変死扱いになるから、無条件で司法解剖に回されるんだ。…それでね、なんと不審な事が浮かんだんだよ!」 影戸は突然立ち上がると、楽しくてしょうがない、と言いたげな笑みを浮かべ、快活にそう叫んだ。 「普通、拳銃で額を打ち抜いて自殺しようとする場合、銃口は額にくっつけるはずだろう?するとどうなるか…」 管理人は右手の人差し指と親指を立てて銃の形を作ると、その人差し指を自分の額に当てた。 「どうなるかって、銃弾が自分の頭に撃ち込まれるでしょう」 私は答える。 「勿論そうだ。額には銃弾の入り込んだ傷跡ができる。でも、それだけじゃないんだよ。銃弾は火薬によって発射される。火薬とは、一瞬のあいだ高熱を発する。つまり、銃口は人間の皮膚が耐えられないほどの熱をもつんだ!だから、健作氏の額には、火傷の痕もなければならないはずだ。でも、それがなかったんだよ!」 ずいぶんと回りくどい説明に思えるが、理屈は間違ってない。 「それが、自殺ではない、という結論になったんですか?」 どうも私には納得できない。確かに理屈ではそうなのであろうが、必ずしも銃で自殺しようとする人間が銃口に額を当てて、自分の頭を撃ち抜くということはないであろう。別にぴたりと銃口を額やこめかみにあてずとも、引き金さえ引けば銃弾は飛び出すのだ。 「健作さんは、額から銃口を少し離して撃ったのかもしれませんよ。考えられない事じゃないでしょう?そうすれば、火傷の痕もできなくて当然です」 私は思った事を管理人に告げる。 「確かに、その可能性もないとは言い切れないね。でもね、警察はそれを切っ掛けに、健作氏の遺体を自殺体だと断定できなくなった。それはさらに、実に不可解な事実が判明したからなんだ。…なんだと思う?」 「さあ…?」 「それはね、健作氏の額に撃ち込まれた銃弾は、『最低でも十メートルは離れた場所から撃ち込まれた弾痕』であることが判明したんだよ」 「そ、そんなことが!?」 そうなると、確かに泉健作の死が、自殺であるとは考えにくくなる。まさか、健作氏の手が十メートルも伸びるはずもない。 「健作さんが亡くなってた現場の広さは?」 私はなんとなく嫌な予感がした。 「彼の住んでいた家は、ごく一般的な一戸建ての家らしいよ。健作氏はリビングで死んでたらしいんだけど、勿論、十メートルもの広さがあるリビングじゃない。せいぜい、横幅縦幅共に四メートル程度の広さらしいね」 「ということは、家の外から何者かに撃たれた、という可能性が高くなりますね。…あれっ、でも窓にも玄関にも鍵が掛かっていたんでしたっけ?」 「そう!その通りさ!」 影戸はパンッ、と一度大きく手を叩いて立ち上がった。まるで、今にも踊りだしそうな雰囲気だ。 「解剖の結果から考えて、銃弾は屋内で発射されたとはどうしても考えにくい。否、その可能性はゼロだといっていい。そうなると、健作氏の遺体は屋内にあった訳だから、何者かが『屋外』から健作氏に向けて、銃を発砲したと考えるのが自然だ。確かに、リビングには窓ガラスがあるみたいなんだけど、やっぱり鍵が掛かっていた。勿論、窓ガラスには銃弾を受けたような傷は少しもない。となると犯人は、『窓ガラスをすり抜ける銃弾』を使って健作氏を殺害した事になる」 「窓ガラスをすり抜ける!?そ、そんなものがあるんですか?」 「まさかぁ。あるわけないだろう」 影戸は言って、クククッと笑う。 「ま、待ってください。もう少し詳しく話してもらえませんか?ほら、例えば健作さんの死体がどういう状況で、いつごろ発見されたのか、とか…。密室って言っても、普通の家なんですから、玄関を開ける鍵ぐらいはあるでしょう?」 「ほう、君も少しは論理を組み立てる術を知ってるみたいだね。確かに些細でも、情報がなければ論理的思考は成り立たない。あらゆる可能性を想定し、自分で得た情報によってその可能性を一つずつ消去していく。そして、その中で残ったものが真実に一番近い」 影戸は再びソファに腰を落とす。 「…事件が起きたのは、今から約三ヶ月前だ。健作氏の遺体をはじめに見つけたのが、定岡啓介(さだおかけいすけ)という人物で、なんでも健作氏とは昔から懇意にしていた仲らしい。…実はね、この定岡氏は、もと大分県警の第一課の刑事だったらしいんだ。三年前に定年退職していて、今はのんびりとした隠居暮らしをしているそうだよ」 第一課といえば殺人課である。しかも、定年退職をしてるということは六十を越えた初老の人間なのであろう。 「定岡氏の家は、泉健作さん宅からそう遠くはない場所にあるんだけどね、その定岡氏の話によると、銃声のようなものが聞こえたので、何事かと慌てて家を跳びだしたらしんだ。そして、近所を散策している途中、健作氏の家を訪れた…。しかし、呼び鈴を押しても応答はないし、玄関にも鍵が掛かっている。部屋の電気はついているみたいだったから、定岡氏は少し不審に思ったそうだ。それで、リビングの見える窓から中を覗いてみると、額から血を流して倒れている健作氏を見つけた。定岡氏は驚いて、窓から中に侵入しようとしたが、やはり窓にも鍵が掛かっていたらしい。仕方なく、近くにあった石で窓を叩き割ると、窓の鍵を開けて部屋の中に入ったが、すでに健作氏は事切れていた…ということだ」 影戸は一気にそういって、新しいガムを口の中に放り入れた。 「時刻はいつごろなんです?」 私は尋ねる。 「定岡氏が遺体を発見したのが、午後の九時過ぎらしいね。健作氏が死んだと思われる死亡推定時刻は、それよりも三十分から一時間前だ。死体発見が早かったから、死亡推定時刻もかなり絞り込めたみたいだね」 「あのぉ、定岡さんの聞いた銃声は、他の近所の人には聞こえなかったんですかね?」 私は不審に思った事を口にした。勿論、銃殺であるのなら、銃声が聞こえてしかるべきだ。 「それは当然の質問だろうね。だけど君、日本という国はほとんどにおいて、銃とは無縁な国なんだよ。もし今、この近所で誰かが銃を発砲したとしたら、君はそれを銃声だと思うかい?花火か爆竹の音だと思うだろう?確かに、何事かとは思うだろうけど、あいにく事件当時は、実際に近くの広場で花火をして遊んでいる高校生たちがいたそうだ。だから、近所の人たちはその音だと思ったんだろうね。それに、近所といっても、泉宅は住宅街からは少し離れた場所にあるらしいんだ」 「で、でも、定岡さんって言う人は、銃声だと思ったわけでしょう?どうして彼だけそう思ったんですかね」 「だから、さっきも言ったろう。定岡氏はもと刑事だ」 「ああ、そうか。警察なら銃を撃つ機会があるはずですよね。だから、銃声も聞いたことがあるし、それを聞き分ける事ができるかもしれませんね…。うん、なるほど」 私はそう言いながら、一人うなずいた。 「そういうことさ。…それから、気になる玄関の鍵の行方なんだけどね…、鍵は普段、健作氏と玲花嬢が別々に一つずつ持っていたらしい。つまり、泉宅の部屋の鍵は二つ存在したわけだ」 そういえばそうである。泉健作は玲花の父親であるのだから、健作の住んでいた家に玲花が住んでいても何の不審はない。それどころか、玲花は目が不自由であるのだから、なおさら父親の助けが必要だったであろう。それなのに私は、影戸が語っているこの事件と、玲花の存在を別々のものと考えていた。 …泉さんも、一応は事件の関係者になるのか。 私は玲花の顔を思い浮かべながら、ふとそう思った。 「それで…?」 私は促す。 「健作氏の持っていた鍵は、健作氏自身のズボンのポケットに入っていたらしいね。と、なると玲花嬢が強力な容疑者になるのは自然な考えだ」 「そ、そんなぁ!?」 私は悲痛のような叫びをあげ、すがるようにして影戸を見つめる。 「そんな目で僕を見られても困るなぁ。だってそうだろう?唯一鍵を持っている玲花嬢にだけ犯行が可能なんだから…」 影戸は鹿爪らしい表情で、そう言い放つ。 「…例えば、健作氏を『屋外』で遠方から射殺し、それから健作氏の死体を家の中に運び込む。そうして、持っている鍵で玄関を閉めれば任務完了、ってわけさ」 「ま、待ってください!玲花さんは目が不自由なんだ。遠方から標的を狙うなんて、できっこありません!」 私は勢い込むように反論した。 影戸はにやり、と笑う。 「はははっ、冗談だよ。第一、彼女には犯行当時の不在証明(アリバイ)があるし、健作氏の死体も動かされた形跡はないんだってさ。つまり、殺人現場は間違いなく泉宅のリビングなんだ。それに加え、玲花嬢の鍵は、屋内…玄関の靴箱の上で見つかったそうだよ」 「ああ、そうなんですか。よかった…」 私は胸を撫で下ろす。 「実はね、玲花嬢は事件当日、午後の七時からずっと定岡氏の家にいたらしい。定岡氏もその事を間違いのないこと、と証言している」 「そうなんですか。健作さんと定岡さんが仲が良かったってことは、玲花さんとも仲が良いってことですね」 「まぁ、そういうことだね。なんでも、玲花嬢のことは赤ちゃんの頃から知ってる、て言ってたらしいよ」 影戸はそういって、大きく背伸びをした。 「さあ、他に何か質問はあるかね?」 「こっそりと何者かが、合鍵を作ったという可能性はないんですか?」 「勿論、警察もそのことは調べたみたいだけど、どうもないみたいだね。もしそんな事があったのなら、すぐに調べがつくはずだよ」 「そうですね…」 私は少しうな垂れてから返事をする。 他にどのような可能性が考えられるであろうか。そもそも、影戸の言うように、泉健作が何者かによって殺害されたのなら、どうして犯人はわざわざ密室という状況を作り出さなければいけなかったのだろうか。そして、どのようにして密室という不可解な現場を作ったのだろうか。 …偶然にできたものか? ならば、どのような偶然が…? …自殺に見せかけるために密室を…。 ありえない話ではないだろう。 …それなら、一体誰がそんな事を? 私に解るはずがない。 「あのぉ、まさかとは思うんですけど…、糸やワイヤーを使って密室を作り出したという…」 「はん!そんな事はドラマや小説の中だけにしてほしいね。警察の調べでは、どこの窓や玄関にもそんな仕掛けを使った形跡は見当たらなかったそうだよ。もしそんな事であったら、僕はとっくにこの話を切り捨ててるね!糸やワイヤーを使っただって?ふん!面白くもなんともない」 私の質問を途中でさえぎり、影戸は露骨に鼻筋に皺を寄せて、そう吐き捨てた。どうやら、そういう類の仕掛け…とでも言えばいいのだろうか…は、好きではないらしい。しかし、この管理人の好みで、事件をあれこれ推測してみるのはどうかと思う。 …まあ、警察もない、て言ってるんだからいいか。 と私が思ったとき、ふと単純な疑問が浮かんできた。 …どうしてこの男は、こうも警察の情報に詳しいのか? 「影戸君、もしかしてこの話を持ってきた知人って言うのは、警察関係の人?」 私は尋ねる。 「ああ、そうだよ。少し奇怪な事件が起こって、自分の手に負えなくなるとすぐに僕を頼ってくるんだ。僕を散々悩ませてくれる事件なら大歓迎なんだけどね、彼の持ってくる話は、どれも大したことはない」 と管理人は肩をすくめる。 私はそんな彼の返答に少しばかり驚いた。大体において、警察の人間が一般市民に情報を流して良いものだろうか。しかも、ずいぶんと詳しくこの管理人に教えているらしい。どうみても影戸輝という男は信用の置ける人間には思えないのだが…。しかも、警察の手に負えない事件をこの男に相談するというではないか。一体、何のメリットがあるというのだろう。まさか、シャーロック・ホームズよろしく名探偵のように鮮やかに事件を解決してくれるとは、どうしても思えない。確かに、頭のよい男であるような気がするが、あくまでも『気がする』と言うだけだ。 「どうしたんだい?そんな深刻そうな表情で、僕の顔を見つめたりして。まさか、『そのけ』があるんじゃないんだろうね」 影戸は、再び鼻筋に皺を寄せて、ソファの背もたれに仰け反った。 「ち、違います!そんな趣味は一切ありません!」 私は慌てて影戸から視線を逸らした。 影戸はそんな私の態度がおかしかったようで、大袈裟に手を叩いて笑う。 「いゃぁ、実に面白い!君みたいな『逸材』はなかなかいないよ」 そんな影戸の言葉に、私はむっときたので、 「缶コーヒー、ご馳走様でした!」 と、わざと大声で言って、管理人の部屋を大股で出て行った。 |